鎌倉、まぼろしの風景。169

　馬頭観音とは平安時代から信仰されて来た観音菩薩の一形式で、頭上に馬の首を載せた仏像で表されている。日光の輪王寺三仏堂にある巨大な馬頭観音は、３面６臂で憤怒の相をした馬頭観音だ。
　だけど江戸時代の村の人々が建てた馬頭観音の石碑は、頭に馬の首をつけた優しい姿の観音様だ。
　たとえば鎌倉市の富士見地蔵の敷地に祀られている馬頭観音は、天女の羽衣のようなショール、ふんわりした天衣をまとった優しいお姿で、まるで乙女の立ち姿の様にも見える。美しい石仏である。

　今は「開発」や「道路整備」という名の下に、露地にあった庚申塔や馬頭観音が、寺社の敷地に集められて祀られている。けれども馬頭観音は本来、村の地域の目印として建立されていた。
　鎌倉市山ノ内の明月院の北に、馬頭観音が祀られている。その右手から石碑の真後ろにかけて、岩を掘削した山道が通っている。騎馬の武人が騎乗のまま尾根道に上がる山道である。

　あるいは山から下りてくる道だ。そこは馬にとっての難所であって、そこで足を折って死んだ馬もいたかもしれない。そういう危険地帯に、ちょうど「馬進入注意」という標識の様に、馬頭観音が建てられている。村の人達とともに暮らした農耕馬は、大切な財産だったからだ。

　農家で飼っていた馬や牛が死ぬと、村の決まった場所に葬られたのだそうだ。でもそれは墓地ではなくて、言い換えれば死骸置き場、だった。死んでしまったので所有権を手放したという意思表示のために、少しの土をかけて放置したのだそうだ。その馬の革は武具になり、たてがみや長い尾の毛は、刷毛や裏ごし器の目地になって再利用されたのだ。骨は焼いて砕いて、白い絵具になっただろう。馬の遺体はすべて高価な資源として再利用されたのだ。
　だから村はずれにあった馬頭観音は、慰霊碑であると同時に目印でもあったのだ。死んだ馬はここに置いて下さい、という。
　馬頭観音の優しい石像に出会うと、江戸時代の人達の馬に対する愛情が伝わって来て、優しい気持ちになる。だけど。本当にそれでいいのだろうか。

　下世話な見方で申し訳ないけれど、馬頭観音の石碑は個人の墓よりも高価に見える。庚申塔の様に村の資金をつぎ込んで建設された様に見える。馬のために？

　そんな疑問に答えてくれる馬頭観音碑に、出会った。江戸時代よりも新しい時代の石碑だけれど、そこには○○家馬頭観音と彫られていたのだ。村の公共の供養塔ではなく、一族の供養塔だった。お武家さんの家が歴代の愛馬を供養したのかもしれない。そして、そうではないのかもしれない。

　江戸時代では、本人の信仰がどうであれ、かつて祖先がキリシタンであったということだけで、厳しい制約があったのだそうだ。
参照：148.鎌倉という名の火祭り
　キリシタンとされて死んだ人は、村の墓地に葬ることができなかったそうだ。それで人々は別の墓地を作ったのだろう。そこに墓碑を建てることはできない。でも、馬頭観音だったら建立できたのかもしれない。「あそこは馬の墓だよ。」そう言って村人は手厚く故人を供養したのだろう。だからこそ、鎌倉のあちこちに見られる馬頭観音はあんなにも優しい穏やかな姿をしているのだと、思う。弔われているのは馬ではなく、村人なのではないか。

　石仏の馬頭観音は愛馬の慰霊碑である。
　馬頭観音は馬の難所を示す標識である。
　馬頭観音は馬の死骸を資源にする標識である。
　馬頭観音は村の墓地に葬られなかった人達の墓碑である。
　そのすべてを馬頭観音という石仏が背負っているのではないか。そう思った。

　今では馬頭観音も墓石も、地蔵菩薩も庚申塔も、一緒にかたまって保護されていることが多い。時代が変わって、かつての馬頭観音の役目も消えている。でも、風化したその石像を見れば、今でも作られた当時の人々の、暖かい心が伝わってくる。江戸時代に作られたそれらは、苦しい生活を強いられた人達の生きている声を伝えてくる。
　それは理不尽な制度によって人間らしい暮しを奪われた人達の、力強い反撃の声でもあると、思った。

追記：　平塚市の犬房丸の墓を見に行った時に、道に迷ってしまったことがあった。そこで老人介護施設の玄関を掃除していた職員さんに、道を聞いてみたのだ。その方はとても親切で、別の職員に聞いてくるといって、掃除を中断して施設に戻って行ったのだ。その方は一緒に犬房丸の墓が見える所まで、案内して下さった。そして言ったのだ。
「施設で介護しているお婆さんが、今まで長い間、犬房丸の墓を掃除して供養して来たんだそうです。そのお婆さんから墓のことを聞いていたので、案内することができたんです。お婆さんはいつも『あそこは馬の墓だよ』と、言うんですよ。」　

　犬房丸の墓については「新編相模風土記稿」に出ている。
「伝へ云、工藤左衛門尉祐経の息男、犬房丸の塚なりと、されど碑石の様、当時の物と見えず、当所に其墳墓あるべき因み、未考ふる所なし最も疑ふべし、」
　それは徳川幕府の役人に、村人は墓の主を詳しく教えなかった、ということかもしれない。21世紀になって、土地の人は「馬の墓」と伝えている。それはつまり、「供養することを憚られる人の墓」、なのだ。徳川家の敵であった側の人か、あるいは明治と昭和の時代に語れなかった人の墓か。時代に抹殺された人の巨大な五輪塔を、憐れんで供養して来た人達がいたのだ。
　もしかしたら、その墓の人に寄り添う様に、後世に一緒に弔われた人達がいたのかもしれない。それを「馬の墓」と呼んで掃除をし続けてきた人達がいたのだ。
　歴史の深さは人の心の愛情の深さだと、この時私は思ったのだ。

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　＊＊＊亀子＊＊＊（ 10 Jun. 2010-6 Mar.2012)