鎌倉市山ノ内に白山大権現と書かれた不思議な祠がある。文化文政年間(1804-1829)に描かれた浦賀道見取絵図にも山ノ内の白山神社は載っている。でも今ある所は、個人の邸宅を見下ろして守る屋敷稲荷だろうと想像される場所だ。本当の白山神社はここではなく、K女子学園の敷地内ではなかったかと妄想される。
この白山神社の祠が不思議なのは、2つある石の祠が、まるで近年に作られたかのように新しく美しく見えることだ。
土の中に埋められていた石仏の彫刻面が風化せずに美しく残っているのを見たことがある。今泉分譲地の金仙地蔵がそうだ。でも、ここの祠はもっと美しい。ごく最近まで風雨の当らない社殿の中に、大切に安置されていたようにも見える。今は長い石段の上の枯草の中にひっそりとある。夏は階段ごと草に埋もれていて、人を阻んでいる。そんな場所の石の祠が、苔もつかずにあるのだ。地域の方が大切にして磨いているのだと思う。
左側の祠には白山大権現と彫られた石碑が納められている。亨保(五)歳、霜月三(月)、木食、、量阿心誉寿、、と彫られている。1720年か。下は草に埋もれている。
右の祠には石仏が鎮座している。大日如来の印を結んでいる僧形で、量善という字が読める。側面や笠の上に木食、量阿、、善大永、、亨保四天六月六日と彫られている。1719年だ。
木食とは五穀を食べない修行のことだそうだ。木喰と書くと、個性的な木彫の仏像を彫って日本中を行脚した遊行僧のことだそうだ。この祠ができた頃に生まれたお坊様だそうだ。祠の文字は木食修行をした上人のことを書いているのだと思った。木食上人と呼ばれる人は何人かいるらしい。
神奈川県伊勢原市の大山の山懐に天台宗無常山一之澤院浄発願寺はある。1608年(慶長13)に木食弾誓(たんぜい)上人(1552頃-1613)によって建立されたのだそうだ。徳川家康から山林を与えられて、相模国随一の大寺院になったのだそうだ。
その後4世の空誉上人(山居木食上人1637-1694)の時に、罪人53人を寺院で預かって(乞い受け来りて、とHPには書いてあった)彼らが築いた53石段が今も奥の院にあるのだそうだ。
重罪であった殺人と放火の罪以外の罪人は、このお寺に入ることで許されたのだ。「最も重刑に処せられるべき罪人も、当山の寺院に足を踏み入れば、其の罪を許され」と浄発願寺のHPに書いてあった。空誉上人が乞い受けた53人は命を救われたのだ。と思う。ハリウッド映画の「シンドラーのリスト」みたいだと思う。
参照:浄発願寺のHP
浄発願寺は「男の駆け込み寺」として明治まで有名だったらしい。知らなかった。
御禁制のキリシタンは罪となったから「あいつはキリシタンだ」と言われたら、何年も牢に入れられて「お取り調べ」という拷問が待っている。牢内で死ぬ人も多かった。そんな時に、駆け込めば助けてもらえるお寺があったのだ。これはスゴイことだ。
そして気づいた。「男の駆込寺」と呼ばれた、ということは、「女の駆込寺」つまり北鎌倉の東慶寺も、そういう役割を担っていたということだ。
離婚訴訟だけではなく、世間の力の及ばない結界の内側として、「罪人」が逃げ込める尼寺であったのだ。それはキリシタンを守る尼寺でもあったのではないか。
中世鎌倉時代から戦国時代くらいまで、寺とはそういう助けを求めて駆け込める場所だったのだそうだ。一種の治外法権を持った場所で、今で言う避難所、アジールだったそうだ。もちろんそれ相応の武力を寺院が持っていて、追いかけて来る者に対抗できる実力もあったのだ。それが徳川幕府になって、施政者に対抗する宗教権威は剥奪されていった。家康が承認した寺だけが駆込み寺として治外法権を持つことになった。東慶寺は天秀尼が家康にそう願い出たから寺法が存続できたのだそうだ。
離婚だけだったら、近所の尼寺へ入れば、俗世を棄てるのだから自動的に離婚できた。東慶寺の寺法は、尼にならなくても離婚できた事なのだと井上禅定和尚は語る。早い場合は3日で離婚調停が終わって帰る事が出来たらしい。
松岡宝蔵に展示された川柳には
馬鹿なかもじ屋 買出しに松ヶ岡
というのがあって、尼になったとしても髪を剃らないでいたのだそうだ。元の生活に戻る為の駆込み寺なのだ。
参照:東慶寺と駆込女 井上禅定著 有隣新書
鎌倉に松ヶ岡ありとうたわれた東慶寺の本領は、そこにあったのだ。夫がキリシタンだと言われた時に、連座して斬首されないように、その妻の命を守る寺だったのだ。松ヶ岡、鎌倉とは、キリシタンも守ることができる場所だった。
江戸時代1800年代後半に大流行した1泊2日の大山詣。2泊3日の大山、江ノ島、鎌倉詣で。もちろん徳川幕府公認の旅行である。江戸町民の娯楽でもあったこれらはキリシタンというキーワード抜きには語れないのではないか、と思う。
参照:46.おとうさまの谷戸(4)
キリシタンというキーワードで解錠してみれば、長崎の生月あるいは平戸から見た聖地、中江ノ島にそっくりな江ノ島、江戸殉教の鎌倉、救済の大山という答えが出る。万一の用心の為に、浄発願寺と東慶寺の、2つの駆込み寺の行き方を知っておく。帰ったら女房にもしっかり教えておく。そういう事だろうか。
大山詣でをする人がみなキリシタンだと言っているのではない。数人のキリシタンの為に、無関係な人達がたくさん賛同したということだ。
見ざる。聞かざる。言わざる。キリシタンが再び信仰に立ち帰らないよう、棄教したキリシタン達の慰撫を、幕府ごとみんなで図っていたのではないか。それは幕府の内部にもたくさんの棄教したキリシタンが生きていたということだと思う。
追記:浄発願寺は上野寛永寺内凌雲院の末寺として繁栄したのだそうだ。
元禄5年(1692)に空誉上人が法要をした宝篋印塔があって、それは名古屋城主の尾張徳川3代目綱誠(つななり1652-1699)が正室の螢珠院を弔うために奉納したのだそうだ。
そのほか佐竹氏、藤堂氏の墓石もあり、公家の広幡家や徳川、織田、黒田、松平、大久保、有馬という諸大名も信仰した寺なのだそうだ。
10月にはお十夜法要があって、鎌倉の光明寺、平塚の海宝寺とともに相模の三大十夜と言われて昭和初期まで多くの信者を集めていたそうだ。
参照:悠保悠遊:大山西尾根
追記2:東慶寺の松岡宝蔵に掲示された東慶寺略年表に、松平忠長の名があって驚いてしまった。「乱心した残忍な殿様」忠長の自害の翌年に、彼の御殿が東慶寺に移築されたのだそうだ。びっくりだ。
千姫は彼と兄弟だから、忠長の菩提を東慶寺で弔ったとしても不思議ではないけれど。
そうすると、あのイエズス会の聖餅箱は彼の物だったのかもしれない。
参照:112.東慶寺の姫
実は松平忠長は自害していなくて、彼のお屋敷の一部は山崎の里に移築されていて、そこで彼は幸せに隠居生活をしていた。そんな夢を見たいなと、思った。その場所は山崎小学校の隣、北西にあって、江戸時代には谷戸の最深部にあたる。真南に大きな滝が作られていて、その遺構はいまでも道路から見ることが出来る。私が小学校の時に見た、美しい水田の谷戸は、松平忠長のお庭だったのではないか。魯山人が愛した山崎の里、イサム・ノグチの隠れ家、私の桃源郷は松平忠長の秘密を抱いて昭和まであったのではないか。
今は分譲地にするために重機が動いているその場所に立って、そんな想像をするのも鎌倉の散歩の醍醐味なのだと思う。
参照:45.山崎の里(3)
参照:47.将軍のいましめ(5)井関隆子
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