JR北鎌倉駅の近くの和菓子屋さんで、京都のお菓子屋で作られた麩焼き菓子を買うことができる。甘い味噌味のその干菓子の名前を沖の花という。なにか物語めいた名前だと思った。
沖の花という菓子は、4枚の麩焼き菓子を平に並べて袋に入れてある。長方形の麩菓子のその並べ方を見て、思い出す写真があった。大分県由布市の湯布院町にあるキリシタン墓地の写真だった。
参照:MAPPLE観光ガイドキリシタン墓地
苔むした伏墓の姿と、袋の中央にラベルを貼られた「沖の花」の形が、似ている。と思った。そして何よりも「沖の花」という詩的な名前にひかれてしまった。沖の花とは何を意味しているのだろう。
まず気になったのが司馬遼太郎の小説の「菜の花の沖」。江戸の廻船商の、高田屋嘉兵衛の物語だそうだ。次に、土佐市出間(いずま)沖の花・花フェスタ。これは70万本のひまわりを楽しむイベントだそうだ。沖の花というのは地名なのだろうかと思って聞いてみた。土佐市産業経済課の方が親切に教えて下さった。「出間沖の『沖』というのは広い田畑を表しています。」という事で、地名ではないのだそうだ。
「沖の花」は謎のままずっと保留になってしまった。
それが急に解けた。松平忠直の足跡を調べていて、大分の歴史に詳しいHP「三佐の歴史」に出会えたからなのだ。このHPを読んで、沖の花とは何かが、わかった。
参照:三佐の歴史
大分市の三佐(みさ)に岡藩御茶屋敷がある。私は茶道のお茶室だとばかり思っていたけれど、御茶屋敷とは参勤交代の時の大名の宿泊施設なのだった。HP「三佐の歴史」に古地図があって、ヨットハーバーまでついた巨大施設「御茶屋敷」の姿が想像できた。
その岡藩御茶屋敷は松平忠直が配流になって大分に来たので、萩原にあった御茶屋敷を引き渡して三佐に移ったのだそうだ。配流が1623年だから、豊後岡藩2代目の中川久盛の時代である。北鎌倉の東渓院を建てた久清さんのお父さんだ。
岡藩の宿舎と巨大ドックは、以前は萩原にあったのだ。それはそこが大友宗麟の時代からの国際港があった場所だからだ。と、思う。萩原の西隣の大分川の河口、今津留に、沖の浜という港があったらしいのだ。「沖の花」ではなく「沖の浜」である。
ポルトガル船のアジア諸国航海路程記集(16世紀末)に、豊後の港として、蒲江、臼杵、佐賀関、沖の浜、日出(ひじ)が書かれているそうだ。南から順に北へと書かれた港の名はどれも今の地図にも書かれている地名だ。でも沖の浜だけは地図上に無い。大友館から約4kmと書かれた距離から推察して、今津留にあっただろうとしているのだ。消えた港なのだ。
その沖の浜にポルトガル船が入港する。めったに無い事だ。それを聞きつけて、1551年9月(天文20)フランシスコ・ザビエルが山口からやってくる。ザビエルは1549年に中国船で鹿児島に上陸してから、平戸、山口、堺、京都と布教をして山口に戻っていたのだ。彼はここ大分で21歳の大友宗麟に会い、11月に日本を出国してインドに向う。翌年1552年12月3日広東に近い上川島で客死する。46歳だった。
つまり、沖の浜とは、ザビエルが日本から去った所、それを記念する港、なのだろう。
その沖の浜は消えてしまった。1596年(文禄5)9月にマグニチュード7,0の地震にあって、村と住民ごと海にさらわれてしまったのだ。
消えた沖の浜のことを人々は長く語り継いでいただろう。日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルとキリスト教を保護した大友宗麟の名とともに、彼らを記憶し被災した人達を慰めるために。
ところが地震から103年後、1699年(元禄12)に、戸倉貞則の書いた「豊府聞書」によって、沖の浜はその名さえも消えてしまったのだ。「瓜生島」伝説である。
別府湾に沈んだという瓜生島は「またの名を沖浜町」と書かれ、これ以後、瓜生島の名が地震の記憶として語られる様になったようだ。瓜生島はもともと存在しないと「HP三佐の歴史」は語る。
参照:沖の浜 ( おきのはま)/沖の浜の瓜生島説は誤り
鎌倉の歴史を調べていくうちに私が知った事の一つが、この「風評を消す」ことだ。時の施政者が積極的に「歴史」を書いて、人々の声を歴史に残さない様に消していくのだ。江戸時代の鎌倉はキリシタンに縁の深い場所だった。1623年(元和9)の江戸の大殉教の発端の地として、またはキリシタン伝道所のあった場所として、あるいはキリシタンの命をも救ってくれる東慶寺のある松ヶ岡として。江戸時代の人々は「鎌倉」というとキリシタンの町だと思っただろう。それを武家政権発祥の地の源頼朝の鎌倉、そして「幕府公認の観光地」に塗り替えたのが徳川光圀だ。彼の編纂した新編鎌倉志は名所旧蹟を満載して1685年に刊行されている。島原の乱を鎮圧して宗門人別改帳が作られて、キリシタンは見えなくなったその後の総仕上げだ。鎌倉はキリシタンという名を消して観光地になったのだ。光圀のこの行為は各地の手本になっているのかもしれない。
14年後の大分では豊後府内藩士の書いた豊府聞書によって、地震で消失したのは瓜生島だということになった。架空の島のあからさまなその出版によって、人々は口を噤む。フランシスコ・ザビエルの沖の浜は忘れられていったのだろう。公的には沖の浜の名前は無くなってしまったのだ。
それでも人々はその名を伝えたのだろう、と思う。サンタ・マリアが「三太○八」になったように、沖の浜は沖の花になって語られ残ったのだろうと思う。ポルトガル船が停泊した国際港はザビエルの面影を重ねて、菓子の名に生まれ変わったのだ。たとえば茶の湯の席で出されて、大分の湯布院ではキリシタンの墓がこの様であったとか、海に消えた港があったのだとか、西に行った神父の事も語られたのだろう。そういう物語をする事が棄教した人々の互いの慰めになる、心を解放できる場になる、それが茶の湯の席のおもてなし、だったのだろうと、沖の花を食べながら、思った。
追記:豊府聞書が書かれた時の豊後国府内藩主は2代目の松平近陳(ちかのぶ)。息子の三代目松平近禎(ちかよし)も、ともに奏者番を勤めていて、後年に近禎は寺社奉行も兼務している。キリシタンの取締の責任者になっていたのだ。
参照:大分歴史事典
参照:110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田
参照:133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6
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