第六天とは仏法の敵であった第六天魔王のことだ。具体的には牛を従えて現れるヒンズー教のシバ神なのだそうだ。仏に帰依して、寺院を守る神になった。
参照:
天神の牛保土ヶ谷の歴史再発見:大畠洋一
江戸時代の浮世絵に出てくる赤い顔で鼻の高い天狗さんも、悪魔であったけれど改心して寺院を守るようになった。第六天とこの頃の天狗は重なっている。
自分は第六天魔王だと言ったのは織田信長だ。比叡山を焼打ちして大勢の僧侶を殺したのだそうだ。だから仏に帰依する前の仏法の敵、第六天だと言ったのだろう。
第六天社という神社が関東には数多くあって、それは後北条氏の支配地に広がるのだそうだ。
参照:他にもあった第六天 全国編
参照:消えた第六天 藤縄勝祐著
後北条氏の城の中に第六天が祀られていて、後北条氏が第六天社を祀っていた証拠になる古地図がネット上にあった。
参照:戦国末期に後北条の信仰する第六天は泉頭城にあったのか
第六天社とは織田信長を祀る神社ではないのか、そういう目で第六天社を眺めてみた。
鎌倉にも第六天社はある。キリシタン弾圧期の江戸時代よりも、廃仏毀釈の明治期を乗り越えるために、第六天社は名前を変えて、ご祭神を変えて生き残った。一回消滅してしまい、戦後になって住民の人達の愛情で復活したのだろう。「民の社(たみのやしろ)」なのだ。
藤沢の柄沢神社の様に、今も名前を変えている第六天社が多い中で、鎌倉市植木にある神社は社殿に第六天社と書かれていて、なんだか嬉しくなってしまった。
ここは相模陣稲荷社に隣接した山頂である。昭和の明細地図で見ると鳥居の記号が描かれていなかった。でも山頂の平地とそこに向かう階段が描かれていたから、この神社はずっとここに鎮座しているのだと思う。かまくら春秋社の「鎌倉の神社 小事典」にも載っていない神社だ。
ここには鎮守の杜があった。住宅地や道路におされて「整理」されてしまう神社が多い中で、いまだに古風な姿を辛うじて保っている。
この第六天社は玉縄城の大手門の南西にある。今はS泉女学院の南門になって、閉じられている門の南西だ。
それで奇妙な事に気がついた。横浜市戸塚区と藤沢市柄沢の、訪ねて廻った第六天社とここは、同じような位置にある。山塊の南西の斜面だ。それは山城の未申(ひつじさる)の方向だ。
鎌倉にある他の第六天社でも確かめてみた。
新編相模国風土記稿は1841年(天保12)にできた神奈川県の地誌だ。この中から第六天社をピックアップして、鎌倉市にあったはずの第六天社を探してみた。そして地図上で、山塊の南西にあるのか、確かめた。
1)寺分の駒形神社。 今は境内のどこにも第六天とは書かれていなかった。柄沢神社にあった弁天様と良く似た弁天像が岩窟に祀られている。「講中」という文字が手編の「搆中」になっている。間違えたのではない、と思う。インターネットでは佐渡と大阪なにわの石碑に同じ「搆中」が見つかった。
参照:151.不屈の第六天社(藤沢)
ここは大平山丸山の山塊の南西の端で、戦国時代には山城であったらしい。
2)腰越の小動(こゆるぎ)神社。 広い境内の東の崖に、鳥居と六天王社があった。
腰越の満福寺を含む「輪番八か寺」のある山塊の南西の端に、小動崎はある。
源義経は満福寺から先の鎌倉に入ることができなかった。その「腰越状」の故事を思い出せば、ここらは関であったかもしれない。その南西の位置に今も六天王社がある。
3)台の神明神社。台の第六天社とはどこだかわからない。かまくら春秋社の「鎌倉の神社 小事典」の神明神社(台)のところに、「1920年(大正9年)に村内の淡島社、第六天社、諏訪神社を合祀した。」と書いてある。
神明神社は村の人が伊勢詣でをして神札を持ち帰り祀った神社なのだそうだ。それが元亀年間(1570-1573)なのか江戸中期なのか説が分かれるのだそうだ。
それでは伊勢神宮を祀る前は、ここは何だったのか、と考えると、淡島社、第六天社、諏訪神社のどれかだったのだろう。消されてしまった神社を合祀という形で復活させたのではないか。と思った。
参照:131.稲荷神社の句碑
ここは台山の北東の斜面にあたる。
4)山崎の昌清院。 ここは拝観することが出来ないから、第六天社が今も現存するかわからない。
5)山ノ内の建長寺の第六天社。 ここも祭礼の時以外は非公開の神社だ。位置は建長寺の真西にある。
参照:158.第六天社と安部清明碑
6)関谷の旧御霊神社。新編相模国風土記稿に書かれた関谷の第六天社とはどこだろう。
植木の諏訪神社(A)に合祀されたという関谷の御霊神社(B)の事だろうか。
玉縄城が廃された時に(1619年元和5)城内の諏訪壇にあった諏訪神社(C)が植木(A)に移された。その時に関谷の御霊社(B)と合祀されて、今も鳥居には「諏訪・御霊両大神」と掲げてある。それは村の人達の力で行なった事だそうだ。玉縄城が無くなって諏訪壇が寂れていくのを見るに忍びなかったのだろう。
関谷には名前の書かれていない神社がある。大正六己年、川口村尾瀬石工秋元と書かれた灯籠が今も建っている。ここが関谷の御霊神社(B)なのだろうか。
関谷(B)
玉縄城址の諏訪神社(C)と関谷の御霊神社(B)が植木(A)に合祀された。A=B+C。では、植木の今の神社の敷地(A)には何があったのだろう。
村人は何もない土地に神社を勝手に作ったりはしない。何かが祀られていたから、この地に合祀されたのだ。と思う。そこは龍宝寺に隣接している。昔はお寺と神社は大きな一つの境内にあった。朝日の見えるところ、あるいは北極星の見える山頂に神社があって、夕日の見えるふもとにお寺がある。
だから龍宝寺と隣りの諏訪神社の場所(A)はペアであったかもしれない。龍宝寺は玉縄北条氏の菩提寺だった。それなら坂東平氏の祖先を祀る御霊神社があってもいいだろう。玉縄北条氏は平氏なのだから。
植木の諏訪神社(A)とは、御霊神社のあった場所なのではないか。諏訪壇の諏訪神社(C)を龍宝寺の隣りの御霊神社(A)に合祀して植木の「諏訪・御霊両大神」になったのだ。と、想像してみよう。A=A+C。
とすると、関谷の御霊神社(B)とは何だったのだろう。そう、これが「関谷の第六天社」なのだろう。
後北条氏の名残の神社を合祀する時に、関谷というちょっと遠い地区の第六天社も取り込んで合祀したのだ、と思う。
そこは広大な小雀浄水場の南西だ。あの長尾道路之碑がある丘陵地だ。その山塊の南西の傾斜地に関谷の第六天社を見つけた、と信じている。
小雀浄水場
長尾道路之碑について、いよいよ語らなければならないだろう。あの静かな文面から伝わる感動を「後北条氏」というキーワードで解けばどんな物語になるか。おととしの春にわからなかった事が、今は少しだけ感じられる様な気がするのだ。
そして「第六天社」と一言も言わずに、後北条氏の遺産の3社を諏訪神社に合祀した、村人の巧妙さとその愛情を思う。語れなかった「秘密」は「小雀浄水場」の事だったのだ。
参照:81.長尾道路の碑
7)坂の下の五霊神社にある第六天社。 たくさんの摂社があって、その一つの立派なお社だ。ここは長谷寺の南西。海に向かう山脈の端だ。
鎌倉近郊にも第六天社はたくさんある。訪ねた3社をあげてみる。
8)藤沢市柄沢の柄沢神社。ここは明治期に第六天社から名前を変えた。日本地名研究所編 「藤沢の地名」によれば、「大台」と「小台」という字名がある。丘陵上の平坦地を表す名だそうだ。その南西に神社はあった。
神社の南方にはノロシ塚があったそうだ。後北条氏の施設で、玉縄城の異変を小田原城に伝えるノロシをあげたのだそうだ。だからここも、大台という山城の南西に第六天があったと想像できる。
9)横浜市戸塚区上矢部町の第六天社。阿久和川(あくわがわ)の北にある第六天社は、農地に囲まれて鎮守の杜に守られていた。地域の方が大切に今も見守っている神社であると感じられた。
青面金剛像も3猿の庚申塔も風化しているけれど、山内庄という文字が読めた。
ここは名瀬川とアクワ川に挟まれた山塊の南西に当る。
10)横浜市戸塚区坂下の第六天社。大坂へ登る街道筋にあった。富塚八幡のある山塊の南西だ。この「富塚」が「戸塚」になったと言われている。どちらもその元は「十三塚(とみづか)」であったのではないか、と思う。根拠はない。
「後北条氏に関係する山城には第六天社があった。その場所は城の南西である。」ということが正しいとするならば。玉縄城の大手門の南西に在る第六天社(一番上の写真)は、玉縄城の遺構の一部だ、と思う。それは信長と後北条氏の時代を懐かしむ場でもあり、徳川幕府の圧政下にあって、村人が仲間内で心を開く大切な場でもあったと、思うのだ。
追記:山城の北東には庚申塔や道祖神がある。という仮説は通るだろうか。次の課題だ。
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