横須賀線はJR大船駅から大きくカーブして、緑深いJR北鎌倉駅に向かう。その右側の台山の中腹に、東渓院というお寺があった。明治時代に解体されたお寺の、クルス門やご本尊の阿弥陀仏は、西台山英月院光照寺に引き継がれて、今も雄弁に歴史を語っている。
参照:110.東渓院菊姫 東渓院は大分県竹田市にある岡城の殿様が建てたお寺だ。その竹田市にキリシタン洞窟礼拝堂があった。そこはお城に近い武家屋敷の敷地内だったのだそうだ。崖を彫って祭壇を持つ礼拝堂にしてあるらしい。
その右手には別の洞窟があって、こちらはローマから来た宣教師が隠れ住んでいた洞窟だという。そしてそれらの洞窟は整備されて、クリスマスにはお祭りもあるのだそうだ。
大分市はキリシタンの遺跡を大切にしているのだ。
参照:ぴのごんフォトアルバム&旅行記
キリスト教は洞窟に縁がある。そもそもキリストは岩を掘ってできた墓所に葬られた。鎌倉市に数千個あると言われる「やぐら」と似た様なお墓だったのだろう。
洞窟教会という鍾乳洞の教会もある。洞窟を掘って祭壇にするのはキリスト教の伝統なのだろうか。
インターネットではイタリアのマテラ市の世界遺産サッシ(洞窟住居)を見ることが出来る。
そこに岩窟教会マドンナ・デッレ・トレ・ポルテなどなど、洞窟教会があるそうだ。16世紀の半ばに日本にやって来たローマの宣教師達は、南イタリアの洞窟教会を知っていただろう。鎌倉の崖にたくさんのやぐらを見つけて、彼らはイタリアを思い出したかもしれない。
参照:地球の歩き方/こちら側と向こう側
参照:Matera, Madonna delle Tre Porte
参照:Matera, San Nicola dei Greci
鎌倉のやぐらは四角く掘られている。でもその中に、マテラの様なアーチを持つやぐらもある。たとえば北鎌倉の浄智寺や亀井の観音堂跡のやぐらだ。
さらに、内部の天井が丸く掘られているドーム型の洞窟も鎌倉にはある。それらは江戸時代に広く改造されたやぐらなのではないかと、思ってしまう。
まず鎌倉時代からあった小さなやぐらがあって、それを江戸時代に拡大して、人が入れるドームにした、そう思ってしまう。ここには「竹筒に納めた十字架」を隠しておける深い穴もあって、それは私の根拠の無い想像なのだけれど、写真の右隅に写っている。
洞窟を掘る時には、既に掘ってある所を掘り進める方が安全だ。数百年間やぐらとして壊れなかった岩盤だからだ。
それなら、鎌倉にある防空壕だって、やぐらの改造でできたのかもしれない。
防空壕とは第二次世界大戦の時に旧日本軍が作った洞窟だ。空襲を避けて百人単位の人が入ることができる地下トンネルで、入り口からすぐに左右に曲がっている。爆風を防ぐ為だ。それらはすべて戦後になって埋め戻された。鎌倉には防空壕の入り口がたくさんある。たとえば北鎌倉の好々亭のトンネルの、中央を貫通する様にある埋められた穴は、そういう防空壕なのだろうか。それとももっと古いものなのだろうか。
埋められた巨大な防空壕と言うと、極楽寺の防空壕、同じ規模で逗子の旧池子弾薬庫を思い出すだろう。それらは江戸時代に、すでに大きな洞窟であったかもしれない。
極楽寺の防空壕は、上に掲載した大きなドーム型洞窟のある街道から梶原を過ぎた先にある。その先は坂ノ下の港に抜ける道筋だ。フランシスコ・ガルベス神父らが捕まったという港だ。
旧池子弾薬庫はあの英勝寺領だったという場所だ。新編相模国風土記稿には池子という項目があっても本文は無い。そういう水戸御殿に関わる場所だ。そこに江戸時代から大きな洞窟があったとしたら?それがキリシタンの礼拝堂であったとしたら!?。妄想ははてしもない。
参照:46.おとうさまの谷戸(4)
やぐらは洞窟礼拝堂に作り替えられた、としてみよう。それはさらに防空壕として掘り進められた、としよう。そんなこともあったのではないか。妄想だろうか。
鎌倉は鎌倉幕府の歴史を大切にしている。それは当然だ。でも、江戸時代の無名の人達が作ったものにも、注目して良いはずだ。
「かまくら子供風土記」を読んでみると、今は無いやぐらの記述に出会う。
十山崎の庚申塔の先に「半七やぐら」があった。それは「観音らしい絵の描いてある横穴古墳」だった。今は無い。その庚申塔にはくっきりと十字が彫られている。
十上町屋と富士塚の間に「三日月やぐら」という横穴古墳があるという。「はいると中は広く、かまぼこ型で、、壁に『石工源』と彫ってありますが、どうも後世の字のようです。」後世とは江戸時代のことだろうか。かまぼこ型とはドームを言うのだろうか。三日月と言っているけれど、それは二十六日の月ではないのか。聖杯型の、聖母マリアが足を乗せている月ではないだろうか。
十亀井砦跡は、室町時代から江戸時代まで使われた石切り場なのだそうだ。今は無い。下へ下へと掘られたと思われる石切り場の高い位置に、つまり古い時代の位置に、やぐらの様な穴が作られている。街道からはずれて灯明の光も漏れないこの場所に隠れた祭壇があったと想像してみる。岩に彫られた文字に十字架を見てしまうのは想像過多というものだろうか。鎌倉にはキリシタンの痕跡があったはずなのだ。それは保護されないのだろうか。江戸時代の無名の人達の歴史も鎌倉史の一部だとおもうけれど。
十明月院の谷戸の奥に、石切り場だと言う洞窟がある。出口が沢山に分かれている。石切り場なら深い穴にする必要は無い。亀井砦跡の様に断崖になるはずだ。ここは神奈川県が緑地保存をしているのだそうだ。この石切り場が大切にされることを私は願っている。この洞窟の存在を大事にしたいのだ。明月院の谷の、線路に近い山の中腹にも、深いやぐらがある。それらが江戸時代と言う新しいものであったとしても、大事にしてほしい。切実にそう思う。
「石切り場」についてはこちらを参照してください。
参照:亡備録
江戸時代初期に外国商館のある平戸ではイシキリバが人の名前だったという例です。
追記:「大柄沢キリシタン洞窟」について知る事が出来た。
岩手県東磐井郡藤沢町大籠(おおかご)には300人を越えるキリシタン殉教者の遺跡がある。町営の大籠キリシタン資料館があるのだそうだ。
その大籠と街道で結ばれている宮城県登米市東和町米川の、大柄沢にある大柄沢キリシタン洞窟は1973(昭和48)年に町文化財に指定されたのだそうだ。 鎌倉市にある亀井の観音堂跡の洞窟には、その上に木の柱を取り付けたと思われる穴がたくさんある。崖の洞窟を覆い隠す様にお堂が建っていたと想像する。洞窟は左に曲がっていて、大柄沢の洞窟と同じ様な壇がつくられてある。途中で掘るのを止めた防空壕ではない。そう思う。
鎌倉のキリシタンの伝道所の跡地はもう無いのだろうか。
まだ個人の信教の自由も人権も知らない時代に、自分の信じるままに生きようとした人達がここに居たのだと思うと、胸が震える。
郷土の歴史は誇らしい人達によってつくられ、観音堂跡洞窟として今も守られていると、私は勝手に思っている。根拠が無ければ妄想だ。でも。
キリシタンは明治まで弾圧された。昭和になって、さらに戦時下で弾圧されたと想像する。戦後になって、郷土史研究が盛んになって、思わぬ方向から不本意な語り方をされる。江戸時代から数えて3度も災難があったのだ。
いっそう隠れてしまった歴史は、壊されて消される道しか残されていないのだろうか。私はそうは思わない。
キリシタンの歴史は過小評価されている。それは長崎、九州の歴史だと思われている。自分たちとは違う人達の歴史だと思うことで、自分の身の回りから見えなくしているのだ。そこにあったのに、見ない。
無関心と不寛容からは住み易い世界はつくられないということを、世界中の人が知っている。今は21世紀になったのだから。
習慣や意見の違う人達も同じ村の人間として、丸抱えしてやりくりしてきた。そういう江戸時代の人達を想像することは、誇らしいことだと思う。
鎌倉の各地の地蔵堂や毘沙門堂などは公会堂になっていて、地域の人達の集会所として今も活発に使われている。宗教部分は薄れても、今も昔も必要な場所なのだ。お地蔵様や観音様がいなくても、公会堂は住民の自治に必要な「大事な場所」であるとわかっている。そんな昔の人達の誇りや勇気を、知りたいと思う。
参照:いわての散歩道 大柄沢洞窟
参照:いわての散歩道 大籠
参照:カトリック中央協議会 岩手県・宮城県内の史跡(2)
参照:迫害をのがれたキリシタン ッ 隠れキリシタンと製鉄 ッ平成17年3月をもって閉校になった旧上沼小学校の想い出のページより。自作教材。登米地域視聴覚教材センター。
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