+キリシタンと江戸文化+は、江戸時代の生活に「キリシタン」というキーワードを加えて眺めてみる試みだ。あれもこれもみんなキリシタンの文化の影響下にあるんだと、あえて言ってみることが、どこまでできるか。
キリシタンという疑いがかけられると、間違いであっても獄中死してしまいかねない、そういう厳しい時代だから、その痕跡はあるはずがない。だから痕跡の無い所にも、あったはずだという前提で話を進めてみる。だから歴史や文化に詳しい方から見れば、噴飯物の物語になるだろう。お許しいただきたい。
そんな幻の江戸風景を続けてみる。
「千鳥」という江戸模様は、お菓子や千代紙、着物の柄に使われている。
夏の夜の浜でチチヨチチヨと鳴き、波間を走る千鳥は、父を呼ぶ子供の声を伝えていると言われる。それを十字架上のキリストの最後の声だと聞き為してみると、江戸の文化は別の様相を表してくる。
参照:161.ゴエモンの木 「千鳥の曲」という琴の組曲があるそうだ。「八橋十三組歌」の2番目の歌、「梅が枝」の別名が「千鳥の曲」なのだそうだ。
かつて「梅枝」というとそれは梅の若枝を指していて、罪人を打つムチを表していたのだそうだ。
参照:花橘をうえてこそ 京・隠喩息づく都 横井清 著 三省堂
「梅が枝」を「千鳥の曲」と言い換えて独立させているのは、「千鳥の曲」という別の替え歌があったから、かもしれない。
その替え歌とは。どんな唄か。
八橋検校とは1685年に71才で亡くなった箏琴の作曲家、演奏者である。10才の頃に大阪に居て、すでに三味線の名手として活躍していたそうだ。
19才頃に江戸に出て、磐城平藩の初代藩主、内藤政長に抱えられる。筑紫筝を江戸で習い、24才の時に肥前諫早へ行って箏の琴の修行をしたそうだ。島原・天草の乱が終焉した年だ。それらは内藤家の意向であったのだろうか。
三味線の腕を認められて、九州で消えかかっていた秘曲を採集記録するのが磐城平藩江戸屋敷に勤めた八橋検校の仕事だったのかもしれない。
30才の時に新しいスタイルの箏琴の組歌を作る。十三組歌である。この歌詞が2曲分足りないというので、内藤風虎が作詞。磐城平2代藩主の内藤忠興の息子である風虎は、俳人としても有名だ。後に平藩を継いだ風虎は「小姓騒動」を起こして藩の存続を危うくした趣味人である。
1663年に八橋検校は解雇され、晩年は京都で暮らした。
京都名物の「八橋」は彼の名であり、お琴の形をした干菓子である。お茶の友だ。
参照:
「近世箏曲の祖 八橋検校十三の謎」2008年 釣谷真弓 著 アルテスパブリッシング
内藤風虎が作詞した歌は「十三組歌」の最後の2曲だ。扇の曲と雲井の曲で、それぞれ6つの歌でできている。両方とも「秘事なるゆえに唱歌をしるさず」なのだそうだ。殿様が作詞したので大切に秘事にしたということらしい。
ここにキリシタンというキーワードを加えるとどうなるだろうか。扇の曲の第一歌。
扇は桜の三重かさね かすめる月を絵にかきて水にうつろう心ばえ ゆえなつかしき ありさま
雲に霞んだ二十六夜の月を扇の絵に描けば、その月を踏むマリアの姿も見えてくるだろう。「故懐かしき有様」と、その月に心引かれるという風虎。彼の名が出てくる以上、秘事に値するのだろうか。
雲井の曲の第六歌。
雲井にとどろく鳴神も 落つれば落つる 世の慣らひ
さりとては 我が恋の などかは叶はざるべき
天高くとどろく雷も、落ちるときは落ちるのが世のならい。私の恋だってかなわないことがあろうか。きっとかなう。
天下に鳴り響く徳川将軍も、落ちるときは落ちる。そう読めば、これは秘曲だ。信仰を恋に喩えるのは「細川幽斎公十木の御詠」と同じだ。
参照:116.江戸の狂歌師酔亀亭天広丸
内藤風虎は熱心に仏教を保護した人だそうだ。だけどこれはやはり秘曲であるのかもしれない。
1550年(天文19)、山口にやって来たフランシスコ・ザビエルは領主の大内義隆に会う。男色は罪であると説いて怒りをかった。それで重臣の内藤興盛が、ザビエルを自分の屋敷に保護したのだそうだ。
この大内義隆が、雅楽の曲に合わせて歌う歌を七人に作らせた。この歌詞が八橋検校十三組歌に用いられた歌詞なのだそうだ。だから最初の曲「菜蕗 ふき」には、7つの歌がうたわれる。
その後、一人が退出したので、2番目の「梅が枝」から最後の「雲井の曲」までは6つの歌で成り立つのだと言う。
その頃、16世紀前半にスペインでは変奏曲というスタイルが流行っていて、テーマ曲の後に5つの変奏曲が続くのだそうだ。つまり全部で6つの歌だ。
八橋検校の名曲に「六段の調べ」がある。お正月によく流れている琴の代表曲だ。これがスペインの変奏曲のスタイルなのだそうだ。
参照:異文化の渡来(一)、「皇帝の歌」 荘司賢太郎
八橋検校が諫早で学んだのは箏曲だけではなくて、南蛮渡来の曲もあって、それを彼は作品に仕上げたのではないか。そこにはラテン語の歌もあって、それで「秘事なるゆえに唱歌をしるさず」と言ったのではないか。そう思った。
ザビエルとともに伝来したキリスト教はラテン語でミサが行なわれていたのだそうだ。
神父が語るそのラテン語を口伝だけで残せば風化もするだろう。でもリズムとメロディーがあれば、唄は生涯覚えているものだ。
洗礼と臨終の時に語るラテン語を「扇の曲」と「雲井の曲」に作曲した、と想像してみる。
秘事なるゆえに唱歌をしるさず。
そのカモフラージュに風虎が作詞をした。殿様の作詞だから秘事なのだと。それは想像過多、だろうか。
八橋検校は内藤風虎と同じ年(貞亨2)に亡くなった。京都の金威光明寺に葬られたのだそうだ。内藤風虎の墓は今は、鎌倉の光明寺の内藤家墓地にあるそうだ。その墓をいつかは見てみたいと思っている。
追記1:
吉沢検校二世(1800-1872年)の曲に「千鳥の歌」がある。古今和歌集よりとられた前唄
しほの山 さしでの磯にすむ千鳥
君が御代をば 八千代とぞ鳴く
その後に器楽奏部分があり、後半は千鳥の部と呼ばれる山場だそうだ。その後に後唄。
淡路島通う千鳥の鳴く声に
幾夜寝覚めぬ 須磨の関守
太字の部分は高音の独特な旋律で、雅楽を模したと言われる部分だそうだ。
「塩の山」とは山梨県甲州市(旧塩山市)にある。「差手の磯」は同県山梨市だ。平安時代905年に成立した古今和歌集に謳われた名所である。山中の河原であるけれど、都人には遠い東国の理想郷の様な海辺だと思われていたらしい。
山梨県には武田氏の黒川金山があり、その南の大菩薩嶺から流れる重川が青梅街道を西に下り、笛吹川に合流している。塩山と差手の磯には、あるいは平安時代には、自然金が流れ着く事もあったかもしれない。それは確かに黄金の輝くユートピアの水辺であったのだろう。
その塩山の河原に千鳥が住んでいる。
君が世を八千代にと鳴いている。「君」とはデウスの神であったかもしれない。
しほの山 さしでの磯にすむ千鳥
君が御代をば 八千代とぞ鳴く
武田の黒川金山の技師が永田勘衛門一族だ。武田氏滅亡後は徳川光圀に招かれて水戸藩の金山の調査をしているのだそうだ。それは1692年(元禄5年)のこと。
参照:水戸藩の「御領内御金山一巻」の大要 ー 永田勘衛門
甲州市で有馬プロタジオ晴信が岡本大八事件で刑死して80年後。キリスト教は弾圧されて消え去り、伝来した科学技術だけが残ったのだろうか。その岡本大八事件を裁いた大久保長安も、鉱山開発を担当した武田の家臣であったのだそうだ。
金山開発はイエズス会のもたらした技術で発展したのだそうだ。技術を学ぶ事はキリシタンになる事であっただろうと思うのだ。
後歌にうたわれる淡路島、とは、小西アゴスチノ行長の領地。キリシタン禁教令が出された1587年に、オルガンティノ神父と高山ジュスト右近、日比谷ビセンテらが淡路島から小豆島、天草へと逃れている。
淡路島通う千鳥の鳴く声に
幾夜寝覚めぬ 須磨の関守
淡路島へ渡った千鳥を、吉沢検校は懐かしく唄った。それが「千鳥の歌」である、と思うのだ。
その「淡路島通う千鳥」の部分は、雅楽を模した旋律と言うけれど、それは賛美歌の音階であったのかもしれない、とも思う。
箏曲には千鳥の歌がまだまだあるらしい。それがどんな背景を歌っているのか、興味深いと思う。
追記2:フランシスコ・ザビエルが堺の港に上陸した時に、病身だった彼を世話したのが堺の大商人の日比屋ディオゴ了珪だ。彼の息子が淡路島へ渡った千鳥の一人、八代城代の日比谷ビセンテ兵右衛門なのだそうだ。
東京の地名、有楽町が織田ジョアン有楽斉の由来であれば、永田町は金山技師の永田勘衛門、日比谷は日比屋ディオゴ了珪、なのだろうか。
参照:キリスト教の茶の湯への影響
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