鎌倉市台にある光照寺の山門は久留子門(クルスもん)と呼ばれている。その中央にくつわ十字紋がついているからだ。それはキリスト教のイエズス会のマークのIHSを組み合わせて、日本の車紋あるいは轡紋(くつわもん)に似せたものだそうだ。
参照:3.「知られざるjapan」の誕生 摂津国(大阪市、高槻市)高槻城主の和田惟政(わだこれまさ)が、南蛮兜に付けていた十字架の文様である。それを中川清秀(きよひで)が打ち取って、家紋の一つにしたのだそうだ。戦国時代の1571年(元亀2)のことだそうだ。
そのクルス門は明治の廃仏毀釈で廃寺になった東渓院の門を移築したものだった。かつて台の高台に小さな東屋が残っていたと、北鎌倉のアーチストの夢草さんが教えてくれた。それは東渓院の名残であったらしい。
1841年(天保12)にできた新編相模国風土記稿には東渓院という記載がある。「徳蔵山と号す、臨済宗足柄下郡湯本村早雲寺末、弥陀を本尊とす」それだけだけれど。
キリスト教を擁護していた織田信長の下で、中川清秀は熱心なキリスト教徒になった。そのひ孫の中川久清(1615-1681)は豊後国(大分県)岡藩の三代目藩主になっている。その彼の娘が江戸屋敷で亡くなった。越中国富山藩主の前田正甫の正室になった娘か、家臣の田近良武の正室か、あるいは別の娘か、分からない。年齢も20代後半から30代後半までと推定するしかない。何も分からないけれど、それは1679年のことだ。彼は娘の菩提寺を中川家の寺ではなく、ここ鎌倉の台村に建てる。それが東渓院だった。
なぜここなのか。
キリスト教は1613年に全面的に禁止される。翌1614年(慶長19)には京都を中心に迫害が続き、高山右近や内藤如庵らが逮捕され、国外追放になる。殉教者は52人。棄教しない者、京都で47人大阪で24人。彼らは津軽に流刑となる。弘前市あたり、または十三湖のあたりに、であろうといわれている。
この年までに福岡、広島、鹿児島、長崎で、26人が殉教している。
1623年(元和9)フランシスコ・ガルベス神父らが鎌倉の港で逮捕されて、江戸に送られた。この時の江戸の大殉教で、彼らの他にもジュアン原主水ら51人が刑死する。鎌倉にあった伝導所は、わずか9年で終わったと、鎌倉・カトリック雪ノ下教会のHPの「鎌倉キリシタンの殉教」に書いてあった。9年はわずかではないと私は思う。
鎌倉・カトリック雪ノ下教会
1624年広島3人、1627年島原・雲仙29人、1629年米沢53人、1633年長崎3人、1636年熊本15人。1603年から1639年までの累々たる死者を日本188殉教者というのだそうだ。そして島原の乱が起こる。寛永14年、1637年のことだ。
岡藩主の中川久清の豊後では1659年(万治2)からキリシタンの逮捕が始まっている。ずいぶん遅いのだ。6年前に岡藩を引き継いだ久清はこの時44歳。彼の代から迫害が始まったのだ。その2年前、肥前国大村藩(長崎県大村市)でキリシタン608人が捕縛されている。禁教令より45年後だ。初代大村藩主はキリシタン大名の大村純忠の息子で、藩内のキリシタンを弾圧する事など事実上不可能だったのだろう。それでも弾圧は始まる。そういう迫害に追い込まれた藩はたくさんあったのだろう。1664年に尾張藩内で207人殉教。1667年尾張で756人殉教。そうして1671年(寛文11)宗門人別改帳が作られて、すべての人がどこかのお寺の檀徒でなければならないという寺請制度が始まる。ついにキリスト教徒はかくれキリシタンになった。踏み絵を踏むしかないのだ。キリシタンの多い地区では、神社に帰属する人もいた。そしてその神社の祭神とは、キリシタンの、大名の娘だったりしたのだろう、桑姫神社のように。そうして、やっと1680年がくる。東渓院が建設された年だ。キリスト教徒の声が押しつぶされて、一人も見えなくなって、それから、である。
弾圧をなかなか始めなかった岡藩の中川久清は、キリスト教に寛容な藩主だったと想像してみた。もちろん踏み絵もやって、たくさんの人を殺したのかもしれないけれど。
台村に東渓院を建てたのは、そのあたりに伝導所が9年間もあったからだ、と思う。かつて伝導所に通っていて、やむなく棄教した村人の子供達にこそ、東渓院を守ってほしいと思ったのだろう。それは娘をキリシタンとして弔いたかったからだ。苦しい時代に、彼女も踏み絵を踏んだのだと思う。あるいは、踏めなかったから亡くなったのかもしれない。
光照寺の中川クルスにはIHSの文字が隠れている。キリシタンの燭台が、今に伝わっている。夢草さんは鎌倉のキリシタンを調べていて、キリスト教徒だった娘の名前を探し当てた。東渓院殿菊隠宗英禅尼という。
娘の名は菊姫なのだろうか、と、彼女は私に教えてくれた。菊という漢字の中にクルスが隠されていると。
そして菊はスペイン語でもポルトガル語でもcrisantemo。そこにはクルス(十字架)cruzが隠れていて、「キリスト」Cristoの「前に」anteとも、聞こえたりするのだ。
久清は東渓院を建てた翌年に、江戸から豊後へと帰路につく。その途中で病気になり、岡で亡くなったのだそうだ。天和元年1681年11月20日。享年67。九重連山の一つの、彼が愛した大船山(だいせんざん)の険しい中腹の台地に、墓があるのだそうだ。
大分県の地図を開いて、竹田市の岡城趾から大船山まで線を引いてみる。それは北から40度西へ傾く線になった。岡城から中川久清が眺めていた山である。地図上で見る限りでは、西から久住山(1787m)、九重山(1791m)、大船山(1786m)と3つ連なって見えるはずだ。きっと、「あの山が3代目久清だよ」と、幼い頃から言われて来たのだろう。その彼の視線を、台山から再現してみた。
台山から見て北西にある山は玉縄城址だ。そこを九重山と見立てると、大船山はE光学園のある岡本の山頂になる。JR大船駅(おおふなえき)の西の山だ。
その山頂を、北から40度西に傾く線上で眺めるとすると、それは台山の北向きの斜面、夢草さんが東屋を見たあたりになる。今は現代アートの美しいギャラリーになっている。ここが東渓院の跡地なのだ。
それは350年ほど前に、自らもキリシタンでありながら、弾圧をしなければならなかった城主の覚悟の視線だ。彼と心を一つにして、苦しい時代を生きた娘への精一杯の弔いがここ徳蔵山東渓院である。と、思った。
追記:
豊後岡藩の名物に「竹田の起き上がり」がある。昭和31年からは、竹田の姫だるまという名で売られているそうだ。
360年ほど前に実在した綾女(あやじょ)という武家の女性をモデルにした民芸品だそうだ。転んでも起き上がる、七転び八起きのお正月の縁起物なのだ。
ところで、キリシタンが踏み絵を踏んで棄教することを「ころぶ」という。棄教して日本名をつけられ、通訳として働いた神父を「転びバテレン」などと言ったのだ。岡藩は、生きる為に転んだたくさんの人々を勇気づける為に、「竹田の起き上がり」を作らせたのかもしれない。
七転び八起き。
転んだキリシタンがまた信仰に戻る事を「立ち上がる」と言うのだそうだ。だから、この姫だるまは「七転び八立ち」である、と思った。そして私の空想では、この静かな姫だるまのお顔は、お会いした事もない東渓院菊姫様に重なってしまうのだった。
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