今まで鳥居の形について、注目した事が無かった。神社の写真を撮る時にも、鳥居をくぐってからカメラを出していたのだ。片手落ちだったと思う。
改めて見直すと、興味深い。山川出版社の歴史散歩便利帳に「鳥居」というページがある。鳥居の図があって各部の名前が書いてある。「台石」の上に「柱」が立って、その柱の根本を「藁座」が巻いている。そういう鳥居は鎌倉にも確かにある。でも鎌倉近辺でよく見る鳥居は、この図説には出ていないタイプだ。
これは古い鳥居の柱を割って解体したもので、台石の上にのる藁座の部分にあたる。古い柱と一緒に境内の隅に片付けられていた。古いものを捨てないで保存してある。歴史を大切にしている氏子さん達の心遣いだ。
これはもしかして十字形なのではないか。そう思って鎌倉の鳥居を見直すと、このタイプの鳥居が沢山あることがわかった。
台石の上の藁座の部分が十字形になっている。
下の写真は明治にできた鳥居だ。解体されて土止めに使われている。十字の形はごくさりげない。
新しい鳥居ほど角の切り込みが大きくて、わかりやすい十字型をしている、様な気がした。
神社にある石像物の台座には、十字形がデザインされている、ことがある、として。そこに注目してみると、狛犬の台にもこの形が使われていた。鳥居のデザインに合わせたのだろうか。
この狛犬は大正14年(1925年)にできたものだ。
この十字形を細長く縦に引き延ばすと、藤沢市にあった堅牢地神や弁財天の石像の形になる。
参照:151.不屈の第六天社(藤沢)
堅牢地神1830(文政13)/弁才天1786(天明6)
逆に、十字を横に伸ばしてみると、灯籠などに彫られる模様になる。下の写真の石灯籠では、火屋の下の六角形の側面に、そのデザインを見ることができる。
この模様は石灯籠にはよくある図柄で、現代の作の灯籠にも繰り返し使われている。そこにはキリシタンという意匠は全く無い。むしろすべての石灯籠に採用される事が、必要だったのだろう。 この模様でつくられた手水鉢が、藤沢市江ノ島にある。 手水鉢の水が入る内側が十字の形に彫られている。文化6己巳歳三月吉日、1809年だ。この年に画家北斎は39才。イギリス戦艦は長崎に勝手に入って来るし、ロシア戦艦は襲撃して来るし、の時代だ。十字架形の文字が彫られている「江島辯才天女上宮之碑」が画家酒井抱一の甥の姫路城主によって建てられたのは5年前。明治まであと60年。
参照:129.黙阿弥の白波五人男
参照:161.ゴエモンの木
これはキリシタンの文化を継承している手水鉢なのではないか。そういう目で見ると、正面の紋は七宝紋に花クルスだ。
下の写真の手水鉢も内側が十字形に彫り込まれている。元禄三庚午天十一月六日、1690年だ。 前年には 中津宮が再建され、弁財天総開帳が行なわれている。それ以後、総開帳がある時には江戸からたくさんの人が江ノ島を訪れた。歌川広重の「相州江之嶋弁才天開帳参詣群衆之図」という大パノラマ図が3枚組の絵はがきになっていて、島内で買い求めることができる。俳人の大淀三千風や許六と芭蕉の時代でもある。
この数年前には「吉利支丹類属戸籍帳」が作られている。キリシタンではない人達も弾圧される時代になったのだ。
参照:148.鎌倉という名の火祭り
手水鉢の正面には江嶋上之宮と彫られている。 この正面の文字を見ていると、その中央に十文字が見えてくる。ここに立つと、そう見えてくるのだけれど、写真でも十文字に見えるだろうか。
「江嶋十(クロス)の宮」そう見える様にこの文字はデザインされている、と思う。
この手水鉢の在る場所に立って、まわりを見回してみる。江島神社中津宮の参道で、神社の正面は鎌倉市の海岸だ。小動崎(こゆるぎざき)の断崖が見える。その崖にはかつて何が彫られていたのか。
手水鉢のすぐ下にある展望台にはベンチもあって、そこでゆっくり崖を眺めることができる。その上の階段の踊り場には、望遠鏡が設置されている。
小学生だった頃、江ノ島で望遠鏡をのぞいた記憶が、私にはある。コインを入れて1分間だけ楽しむ、観光地によくある展望台の望遠鏡だ。だけどその望遠鏡は、本当は何を眺めるための物だったのだろうか。崖には磨崖仏が、あるいは十字架が、またはマリア観音の洞窟が、あったのではないか。それは私の妄想だ。
参照:161.ゴエモンの木
江ノ電沿線新聞社が2001年に出版した「江の島と歌舞伎」中山成彬著 に、江ノ島の参道の入り口に立つ青銅の鳥居について、書いてあった。
江戸随一の超高級料亭であった八百善の主人が世話人になって、1821年(文政4)に再建したものだそうだ。江戸の町人が大きな財力を持ち力を持って、江ノ島詣でを楽しむ時代が来たのだ。その頃、中津宮の参道には「不老門」が建っていて、そこに「妙音弁財天像」が安置されていたのだそうだ。
今は辺津宮境内の奉安殿に鎮座する弁財天は白い肌に紅を置いた女身である。もし、この弁財天が、小袖を頭からかついでベールにして、琵琶を持つ代わりに童子像を抱いていたら。例えば聖徳太子二才像の様な、合掌した幼児像であったら、と、思わないではいられない。
キリシタンは一夫一婦制を守り、遊郭を否定した人達だ。裸にはならず、いつも肌襦袢を着ていたのだそうだ。彼らには男色は罪であった。
江ノ島には弁天小僧のセリフの「岩本楼の稚児上がり」で有名な僧坊があった。衆道はあたりまえの文化だった。
江ノ島詣でと言うと、実は参道に並んでいた遊郭の遊女たちが「弁天様」だったのだそうだ。江ノ島にあった文化はキリシタンから遠いものであった。
江ノ島に鳥居を建て、神社を復興し、灯籠や手水鉢を置いた町人達は、江戸で成功した文化人達だ。彼らは中津の宮に何を作ったのだろう。
まるで今にもキリシタン達が集まって来て、手水鉢で洗礼をする、そんな風景が再現されるような、場所。それが中津の宮の境内だったのではないか。
禁じられた存在しない庭、を造ったのではないか。それは水の無い枯山水の滝や小川の様に、存在しない人達(キリシタン)が集う庭だ。ちょうどテーマパークの人工庭園を見る様に、彼らはここに立ち、見えない人達と見えない十字架をともに見ていたのではないか。キリシタンではない人達が、弾圧されて消え去ってしまった人達に、心を寄せていたのではないか。それこそが、武家の暴力に打ち勝つ町人の文化という力であると、信じていたのではないか。そう思う。
追記:初鰹(はつがつお)とは鎌倉名物の初物のカツオのことだ。初松魚と書けば、鎌倉(松)の初穂、初めての犠牲である。魚はキリストを表す。ここから見える浜からキリシタン殉教者を出した、江戸大殉教を思わせる言葉である、と思う。
鎌倉を 生きて出けむ はつ松魚
中津の宮に、古帳庵と古帳女という夫婦が仲良く建てた句碑がある。1841年(天保12)建立だ。
いざここに 止まりて聞かん ホトトギス
以左こゝ耳 登満里亭幾可ん寶止ゝ支須 古帳庵 ふた親に 見せたし かつお 生きている
婦多親耳 み勢太しかつ遠生きてい類 古帳女
引用:江の島と歌舞伎 中山成彬著
ホトトギスとは夜中に「帰れない」と叫ぶ鳥だ。死者の声を伝える鳥とも言われる。
亡くなった親や先祖に(キリシタン夫妻を想像しよう)、ここでは、もう存在しないはずのキリシタン達が、まるで生活しているかの様に、その姿が生きたままあると伝えたい。
そういう句を読みにくい漢字を使って彫ったのだ。
それは弾圧を越えて生き残った市井の人達が、生きている喜びを表したものだ。
キリストもマリアも居なくなった日本に、キリシタンが残した文化だけが継承されて、それは厳然としてあったのだ。美しい弁財天に詣でる事で、人々はそれを確認することができたのだろう。
「江ノ島に行ったかい?」「行ったさ」「見て来たか?」「見て来たとも」そんな囁きが江戸の町にはあったのだろうと思った。
参照:126.六地蔵・芭蕉の辻と潮墳碑
参照:49.万葉集の大船幻影
参照:94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ
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