+キリシタンと江戸文化+ +
189.西行と九尾の狐 鎌倉市山ノ内にある松岡山東慶寺は縁切寺として有名だ。江戸時代に夫から逃げてきた女達がこの寺に駆け込んで、離婚することが出来たのだ。
この寺の宝蔵に興味深い掛け軸が展示されていた。それはたくさんある宝物の一つだから、いつでも展示されているというわけではない。 東慶寺には年間パスポートがあるから、何度か訪れて出会えるチャンスを待って楽しむのが良いと思う。
その掛け軸の絵は白い布を頭から被った、ダルマの姿をした玉藻ノ前だ。達磨と玉藻ノ前が合体した絵なのだ。 参照:149.玉藻ノ前と殺生石 「玉藻ノ前」とは「九尾の狐」とも呼ばれる妖怪だ。 鳥羽院が院政をしていた1129年から1156年の頃に、宮中に居た美女なのだ。玉藻前は陰陽師の安倍泰成によってその正体を見破られる。天皇が衰弱していくので鳥羽院が原因究明を命じたのだ。 玉藻前は那須野が原へ逃げ、院は八万の軍隊を送って彼女を打ち取った。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常が軍を指揮したという。 平義明(1092-1180年)は、源頼朝を千葉に逃がす為に、神奈川県横須賀市にある衣笠城に篭城して戦死する。89歳だった。頼朝は彼を惜しんでいる。 平常胤(1118-1201年)は、千葉県千葉市の亥鼻城(千葉城)主。ここは将門伝説でも有名だ。本さくら城に移転するまで千葉氏の本拠地だった。 平広常( -1184年)は、東国最大勢力の頭首。彼の参加で頼朝の挙兵が成功する。後に双六の最中に謀殺されたことでも有名だ。 彼らは源頼朝とともに鎌倉幕府を作った功労者達だ。妖怪退治の名誉を鳥羽院と安倍泰成ではなくて、彼ら3人にしているのは、物語がまとめられた江戸時代が鎌倉幕府びいきの時代であったからだと思う。 妖怪談であるはずの物語に、実在する人の名が語られている。当代一流の武人が狐討伐に参加したというアピールだろう。江戸の人達はこの妖怪談を「史実として語りたかった」のではないか、とも思う。 玉藻ノ前は打ち取られるほどだから、宮中では絶大な影響力があったのだろう。八万の軍隊というのだから、逃げたのは玉藻前一人ではなくて、私兵を大勢率いた彼女を中心とした一団であったのだろう。 歴史に書けない事件は、妖怪談になって後世に伝えられたのだ、と思う。 彼女の影響で「病気」になった天皇とは、16歳で亡くなった近衛天皇( 1139-1155年)であったかもしれない。 その後、後深草天皇(1243-1304年)が那須野の殺生石を鎮めるように源翁和尚を派遣する。殺された九尾の狐は殺生石になっていて、百年の後も通りかかる人や獣を殺していたのだ。 参照:149.玉藻ノ前と殺生石 那須に追われた玉藻ノ前の一団が、中国からやってきたキリスト教徒、あるいはマ二教徒であったとしてみよう。 中国は宋の時代で、マニ教徒であったという方臘の乱(ほうろうのらん)は1121年に終わる。数十万人の信徒が殺されたという。この時日本へ亡命した人達はいなかっただろうか。 参照:188.謎の桜紋 玉藻ノ前のモデルは美福門院藤原得子(ふじわらのなりこ)(1117-1160年)だと言われているそうだ。鳥羽院の皇后で近衛天皇の母だそうだ。 鳥羽院の中宮であった待賢門院藤原璋子(ふじわらのたまこ)(1101-1145年)は崇徳天皇の母であった。彼女は美福門院の一派に追い落とされて、崇徳天皇も近衛天皇に譲位をする。 夭折した近衛天皇の後を後白河天皇が継いだ時に、崇徳院が反旗を翻し、保元の乱(1156年)になるのだそうだ。 武士の時代に移行する、鎌倉時代の前夜である。美福門院が乱の原因を作り、武家政権の時代へと進めた、つまり国を滅ぼす妖怪、九尾の狐のモデルだと言うのだ。 だけど美福門院は44歳で多くの資産を娘に残して亡くなったそうだ。遺骨は女人禁制の高野山に納められたそうだ。つまり彼女は失脚していないのだ。だから那須野に追われたのは、宮中にいた別の女官だったのだろう、と思う。 玉藻ノ前は九尾の狐、であったそうだ。金色の毛の白い顔の、尾が九つに分かれた狐の妖怪だ。 ここではシルクロードのタリム盆地からやってきた、緑の瞳の、ブロンドの少女を、思い描いてみよう。赤い縁取りの付いた白い衣装を着たマニ教の少女であると想像してみる。 都を追われた彼女たちは、那須に家族ごと移住して、ふるさとに似た高原で独自の文化を築いたのだと、思いたい。 その頃に、佐藤義清(さとうのりきよ)(1118-1190年)、後の西行法師がいた。父は北面の武士で本性は藤原氏。今で言えば軍人とか警官とか、だ。母は源清経の娘。諸官庁の倉庫の鍵を管理する、天皇直属の役人の家系だそうだ。つまり両親の家族のどちらも、天皇が私的に使う家来だと思うのだ。お庭番とか忍者、みたいな。 そんな佐藤義清は、玉藻ノ前が宮中にいたはずの頃、1137年に鳥羽院に仕える。北面の武士として。 彼は高い代価を払ってその地位を得たのだそうだ。家族が彼の出世に賭けたのだ。彼自身にも野心があったと思うのだ。 なのに1140年に突然に出家する。まだ22歳だった。出家の理由は、親友が死んだからだとか待賢門院に失恋したのだとか、言われているそうだ。謎なのだ。 それで鞍馬に隠棲して、1144年に奥羽(東北地方)に向かう。旅にあって歌を詠む西行法師がうまれるのだ。でもまだ20代で、屈強な元武士で、蹴鞠の上手な宮仕えが気に入っていたはずの青年だ。一人で東北へ旅立つ、そのことをどう考えるだろう。 鳥羽院に、玉藻ノ前の逃亡後を見届けよ、と、命令されたのだ、と想像してみよう。 彼女の特異な文化と宗教活動の痕跡が、那須に残っているか。それを確認しに、出家の姿で一人那須に向かったのだと想像してみよう。若いインテリで武闘派で、人々に好かれた彼でなくては出来ない仕事だ。 西域からきた文化は寺院に保存された経文に詳しく載っているのだろう。その学習の為の数年間の隠棲だとしてみよう。あるいは、玉藻ノ前の不思議な風習を、寺という図書館で調べさせているうちに、彼女が逃亡してしまった、そういう事情だったのかもしれない。そんな妄想を続けてみる。
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世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都はなれぬ我が身なりけり 未来を振り切るようにして出家し、旅に出た西行だったと思う。 道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ これは宮中で風景画を観たときに詠んだ歌だそうだ。後に、室町後期に、謡曲「遊行柳」が創作された。そこでは西行が那須の芦野で出会った柳を詠った歌になっている。 狐を追って那須に来た西行は、柳の木陰に、湧水を見つけたのだ。そこには広い岩盤があって、たくさんの人が集うことが出来て、清水を聖水にして頭から注ぐ、そんな場所であったかもしれない。 西行は那須に来て、玉藻ノ前の一族の文化が継承されていることを知る。今も使われている痕跡を見つけるのだ。それで彼はとても幸福な気持ちになって、この歌を詠む。狐は生き延びていたのだと思う。そう謡うのが謡曲「遊行柳」だと思うのだ。登場人物は一遍上人と柳の精で、西行は出て来ないらしいけれど。 後に芭蕉がこの地を訪れる。芭蕉は西行の跡を辿ると言っている。そして後世に芭蕉句碑が建てられる。その芭蕉句碑は、弔うことの出来なかった人達の墓碑だと、私は思う。九尾の狐という虚構に柳の精という虚構を重ねて、おかげで芦野の人達は建てられなかった、禁止された墓碑をここに作ることが出来たのだと思うのだ。それは妄想であるのだけれど。 こころなき身にも あはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮 西行がこの歌を詠ったのは神奈川県藤沢市大庭を過ぎた所、川に行き当たってシギを見つけた場所だ。そこは藤沢市の鵠沼(くげぬま)になる。鵠沼海岸に出れば目の前に江ノ島が見えるだろう。川を渡れば鎌倉市腰越だ。 ところが、小田原の崇雪が大磯に鴫立庵をつくる。寛文四年(1664年)頃の事だそうだ。 目の前に東海道が通っていて、旅人たちにここが鴫立澤だと宣伝したのだ。鵠沼よりはだいぶ西だ。JR東海道線だったら大磯駅、平塚駅、茅ヶ崎駅、辻堂駅、藤沢駅と4つも駅がある。 その後に大淀三千風が鴫立庵を引き継ぐ。芭蕉が亡くなったので、やっと腰を落ち着けることが出来たのだと、私は思っている。 なぜ大磯なのか。それはすでに大磯の沢を大切にして、そこに集う人々がいたからだと想像してみた。その沢を守る為に、崇雪が沢ごと鴫立庵に取り込んで保護したのだと思う。仏像を置き出家した僧服で庵を守る、そうやって鴫立澤に集まる人達を仏教徒として迎えたのだ、と思うのだ。西行の縁の景勝地だと語ることで、その沢を自分が守り、沢を使いたい人達が自由に使えるように、鴫立庵の庭の一部に取り込んだのだ、と思うのだ。 三千風は20代の頃に鴫立庵を度々訪れている。30歳で出家して西行の跡を辿る旅に出る。天和3年から元禄2年まで(1683-1689年)長崎から山形まで、7年間も行ったり来たりの旅をしたのだ。それを私はキリシタン弾圧を伝える旅であったのだろうと夢想する。鴫立庵に行って、三千風の碑を見れば、それが真実だと思えてくるのだ。 参照:121.大淀三千風の1686年 参照:122.大淀三千風の鴫立庵 参照:大淀三千風の日本行脚文集 願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃 如月は2月。旧暦であれば満月はいつも15日だ。2月15日は釈迦入滅の日なのだそうだ。お釈迦様が亡くなった頃に私も死にたいという美しい歌だ。 ところでクリスチャンの人がこの歌を読んだらどう感じるだろう。 旧暦2月は太陽暦の3月だ。3月21日は春分の日。その日が過ぎて満月が来て、その次の日曜日がイースター、復活祭だ。キリスト教徒が一年で一番大切にする祭日だ。クリスマスよりも重要なのだ。 キリストは金曜日に十字架に架けられて亡くなって、日曜日に復活する。そのことを祝う日だ。「如月の望月のころ」である。 カトリックならば、終油の秘跡(サクラメント)をうけて死を迎えるのだろう。「願はくは花のもとにて春死なむ」キリストが亡くなった頃に私も死にたい、そう読んでしまうだろう。満開の桜の下の幸福な死である。 三千風や芭蕉が「西行法師の跡を辿る旅」と言ったのは、遠い昔の著名な歌人に敬意を払っていたからだと思っていた。だけど玉藻ノ前と西行が同時代であったなら。西行は目的を持って那須野に行ったとしたら。それは三千風や芭蕉が旅に出たのと同じ動機なのだ、と思う。 あるいは古今伝授がキリシタンを語る技術であった様に、西行の和歌も同じように使われたのだ、と思う。 江戸時代の文人が西行の和歌をどう読みなしていたのかが、興味深いと思うのだ。
追記:
鳥羽院は母の藤原苡子(ふじわらの いし)(1076-1103年)が難産で27歳で亡くなった時に、祖父の白河院(1053-1129年)に預けられて育った。父の堀川天皇(1079-1107年)は28歳で亡くなる。祖母の藤原賢子(ふじわら の かたいこ)は27歳で亡くなっている。ひいおじいさんの後三条天皇は39歳で病没。ひいおばあさんも若くして亡くなったという。 この恐ろしい環境で、白河院は自身の警護のために北面の武士という役職を作る。武家は弓を持っていて、その弦の音で魔を払う呪術もやっていたそうだ。武家が歴史の表舞台に出てくるのだ。 白河院の晩年には祇園女御という寵妃がいたそうだ。彼女は鳥羽院の中宮待賢門院藤原璋子を養女にして育てた。白河院は璋子を慈しんだのだ。だから敵対した美福門院藤原得子が、九尾の狐と言われているのだ、と思う。 祇園女御の氏素性は未詳、とウィキペディアに書かれている。 美女は誰かの養女になり、誰かの妻になって宮中に上がってくるのだと思う。氏素性などいくらでも作れただろう。寵妃であったならば、あの子は私の娘だと言い出す人も出ただろう。そうならなかったのは、彼女の姿が「外国人」であったからだ、と思いついた。娘だというにはあまりに異なる風貌だったから、氏素性は未詳、なのだと思うのだ。 その祇園女御の妹が嫁いだのが平忠盛(1096-1153年)だそうだ。白河院と鳥羽院の施政下で武力を担当。日宋貿易もやっていて莫大な富を蓄えたそうだ。 その財産は息子に引き継がれて「おごる平家」の時代を迎える。平清盛のお父さん、なのだそうだ。 とすると、宋からやってきた貿易船に西域の美女がいたのではないか。あるいはペルシャ人の船乗りが京都市の八坂神社のあたりに住み着いて帰化したのではないか、そんな想像をしてしまう。 玉藻ノ前とは鳥羽院の宮中ではなくてお祖父さんの白河院の宮中に居たのではないか。 祇園女御は白河院という巨人のおかげで、「狐」と言われることはなかったけれど、彼女を取り巻く誰かが、那須に追われてしまったのかもしれない、とも思う。
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***亀子***(23 Feb. 2011 - 5 Mar.2012)
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十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
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