「やま柿」というお菓子をもらった。柿の味の羊羹かなと思ったら、干し柿を四角に整形して個別包装した干し柿そのままのお菓子だった。
岐阜県高山市のお菓子だったり信州みやげだったり神奈川県の湯河原みやげでもある。
おいしかった。干し柿は苦手だったけれど、これは美味しかった。
その個別包装が美しい柿のデザインなのだ。それで、初めて気づいた。柿のへたは4枚だ。花クルスになっている。
柿は青い実のうちにとって醗酵させて、柿渋を作る。防腐剤や撥水塗料として笠や番傘、鰻屋のうちわなどに塗られた。
葉は柿ノ葉鮨などにも使われる。赤く実った柿は干し柿にされていっそう甘くなり、お茶うけのお菓子になった。
更に熟れた柿はカラスにつつかれて落ちる。里に住む人やカラスに重宝されて、柿は地に落ちた時に、樹上にその4枚のへたを見せるのだ。
木になっている時には見えない。落ちて初めて花クルスは見えるのだ。
「一粒の麦が地に落ちて死ねば、、」とは聖書の一節だ。
松尾芭蕉の弟子の向井去来(1651年- 1704年)が京都嵯峨野に別荘を設けたのが1687年頃だそうだ。近くに西行法師の出家の井戸があった。その由来に寄り添って、ここに居たのかもしれない。
その後に、一夜にして柿の実が落ちた事を記念して、落柿舎と名付けた。以来、芭蕉も何度かやってきて、俳句のサロンになった。
落柿舎の命名の謂れは広く知られている。でも、落ちた柿に花クルスがあらわれることは語られていない。
去来はお祖父さんの代に長崎にやってきた。お父さんの向井玄升(むかいげんしょう)は儒学者の医者で、聖堂の祭主だったそうだ。孔子廟の事だろうか。
去来は神道を学んだそうだ。親子ともに仏教からちょっと遠い。
天神様のお告げでお父さんと京都に上り、浪人だった去来は基角に誘われて芭蕉の弟子になった。
向井玄升は「名医の誉(ほま)れを喧伝(けんでん)された」そうだ。落柿舎のHPに書いてあった。京都の人達は長崎から来た医者を歓迎したのだ。
去来の髪を納めた墓が近くの弘源寺墓地内にあるそうだ。去来と彫られた墓の文字に十字が見えるのは気のせいだろうか。父の玄升という名は「くろます」とも読める。これも気になった。
参照:落柿舎 碑めぐり
向井家の菩提寺は京都市左京区の哲学の道の近くにあるそうだ。
天台宗鈴聲山真正極楽寺、通称は真如堂だ。ここに去来の墓もある。
この真正極楽寺は檀家を持たないお寺だったそうだ。それが越後屋の三井高利(1622-1694 元和8-元禄7)によって三井家の菩提寺になったという。
初めて檀家として一般人を受け入れたのだ。
その後に向井家が入ったのだろうか。
参照:去来抄
三井家とは三越デパートにつながる越後屋だ。江戸日本橋に仮住まいした俳諧師の大淀三千風(1639-1707)こと三井友翰(ともふみ)とは親戚なのではないだろうか。
三千風の墓は故郷の松坂市射和町にあるそうだ。
芭蕉門下の去来と、芭蕉に会わない様に旅をしていた様な三千風が、真如堂でニアミスをしている。おもしろいと思う。
参照:松坂市 文化財 大淀三千風墓
参照:121.大淀三千風の1686年
参照:122.大淀三千風の鴫立庵
参照:132.鎌倉に来た三千風
その真如堂には殺生石で作った鎌倉地蔵があると言う。
あの、玉藻ノ前の九尾の狐の殺生石だ。それは大変だ。
参照:真如堂境内2 鎌倉地蔵
参照:149.玉藻ノ前と殺生石
那須野が原で殺生石を割った玄翁和尚は、その石で地蔵菩薩像を作って鎌倉に地蔵堂を建てて祀ったのだそうだ。 いったいそれは鎌倉のどこの事を言うのだろう。やはり海蔵寺、なのだろうか。
参照:149.玉藻ノ前と殺生石
その地蔵を甲良豊後守宗廣(1574-1646)が真如堂に移したのだそうだ。
鎌倉から来たお地蔵様だから鎌倉地蔵なのだそうだ。
まず、殺生石で作ったと言う鎌倉地蔵が真如堂に祀られる。
次に、その地蔵を慕って三井家が檀家になる。
それで向井家も檀家になる事が出来た。
そういう順番なのだろうか。
甲良豊後守宗廣は日光東照宮を作った人、だそうだ。
参照:甲良町公式サイト
真如堂に行き当たって、深い謎に落ちたみたいだ。
柿のお菓子の包装デザインが、美しい花クルスだと思った事から始まった堂々巡りだ。
柿はキリシタン大名の高山右近が好んだ果物だという伝承もあるのだそうだ。
能登の七尾市の揚柳山本行寺では「茶会」と伝承されてきた「隠れキリシタン料理」があって、柿の酢の物も出されるのだそうだ。
参照:隠れキリシタン料理
里山に干し柿が並んだ農家が見える。それはかつての日本の、のどかな風景だった。でも、柿の実に別の意味もあったとしたら。
風景を見る目が、すこし、変わるかもしれない。
追記:
坪内稔典 著 「柿喰ふ子規の俳句作法」岩波書店 を読んだ。
そこにジューンドロップという季語が紹介されていた。柿の木が6月に実を落とす事だそうだ。
6月から7月にかけて、柿はまだ青い実を落とす。木の下一面に小さな実がへたごと落ちるのだそうだ。それが年に3回ぐらいあって、残った実がやがてあかく熟す。樹が痩せない様に成り過ぎを防ぐのだそうだ。
柿の自己管理能力はすごいと、著者は語る。
柿渋を作る為に「収穫」するのだと私はずっと思っていた。それはしかたのない事で、でも残念な事だろうなと。それがいっぺんに明るくなった。もぎ取るのではなく拾い集めていたのだ。
柿が捨てた青い実を、人間が惜しんで溜めておいたのだ。それが醗酵して柿渋になった。むしろ柿の木が奨励しているような柿渋なのだ。
たっぷりと実を蓄えた柿の木が、初夏にどっさりと青い実を落とす。それは豊穣を絵に書いた様な光景だろうなと、思った。
花クルスの形をしたへたを付けて、地に落ちたまだ青い柿の実、その豊かで誇らしい風景を見て、ヨーロッパから来たキリスト教の宣教師達は何を感じただろう。
落柿舎とは、もしかして、殉教者を悼む場でもあった、かもしれない。少なくとも、そう解釈してその場を大切にした人々がいたのかもしれない。と、思った。
イタリアでもスペインでも、柿はKaqui(カキ)と書かれて売られているそうだ。
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