鎌倉市材木座の南の飯島崎に、鎌倉十井の一つの六角の井がある。1685年(貞亨2)の新編鎌倉志や1829年(文政12)の鎌倉覧勝考にも載っている名所である。
この井戸にまつわる伝説は繰り返しいろんな本に語られていて興味深い。私はここがキリシタンの井戸でもあると思うのだ。
鎮西八郎源為朝は弓の名手で知られているそうだ。頼朝の叔父さんである。平安時代末期の1156年(保元元)に保元の乱に破れて、伊豆大島へ流罪になった。
伊豆の大島より弓勢をためさんとて、天照山を差て遠矢を射給ふに、其矢十八里の海上を経て此井中に落たり。
為朝は2mを超す巨人だそうだから、神業という事なのだろう。その大島から飛んできた矢がこの井戸に落ちて、その矢じりが今も井戸の底にあるのだと言う。だからこの井戸を矢の根井とも言うのだそうだ。矢の根とは「やじり」のことだ。
材木座1丁目には元八幡がある。この神社の真西が長谷観音だ。だから長谷観音を建造した藤原房前の屋敷が、この元八幡の位置にあっただろうと思う。
参照:103.由比若宮(元八幡)
元八幡の場所はいまでも高台で、鎌倉市の防災マップで見ても、津波警戒地域から外れている。ここに藤原氏の豪邸がかつてはあったのだ。と思う。
(だからこそ、吾妻鏡にたびたびこの辺りの地名が書かれていて、商業地区であり町屋であって貴人の屋敷など無いと言うアピ?ルが「有効」なのだ。都のお公家さんに勝利した武家のちょっとしたイジワルだ。)
その藤原房前の末裔、藤原北家のお公家さんに六角という一族があるのだそうだ。江戸時代からの家系で江戸城にお勤めしていたのだ。その六角さんが作った井戸あるいは改修した井戸が、この井戸ではないかと思う。いつものように根拠は無い。キリシタンというキーワードで、紡いでいく空想だ。
この六角家とは別に、六角氏という有力な戦国大名がいて豊臣秀吉の部下になり、江戸時代には佐々木と名乗って、旗本であったそうだ。京極氏とは親戚なのだそうだ。キリシタン大名の京極高次の一族だ。
参照:112.東慶寺の姫
だから江戸時代に「六角の井」と言うと、両方の六角さんを思い出すだろう。鎌倉覧勝考の取材記者は、その辺は書かないていたのだろう。と妄想する。
さて、矢じりの入っている井戸について、「としよりのはなし」に興味深いお話が載っていた。明治生まれの材木座の方が語ったお話だ。
参照:「としより の はなし 鎌倉市文化財資料 第7集」鎌倉市教育委員会発行
矢の根井: 井戸の中に長さ一尺ばかりの矢の根が竹筒に入っていて、毎年その竹をとりかえることになっていた。ある年それを怠ったら村中にわるい病がはやった。
矢じりは井戸の中に落ちているのではなく、竹筒に入れてあったのだ。その竹筒は井戸の中に納められてあった。そして、その竹筒の中身は、本当に「矢の根」だったのだろうか。
長崎歴史文化博物館は2008年11月1日から2009年1月12日までの会期で、「バチカンの名宝とキリシタン文化<ローマ・長崎 信仰の証>」を開催した。列福式関連特別企画展だそうだ。江戸時代に殉教した188人を「福者」に列する式が、昨年ローマ教皇庁の主催で行われたからだ。
その博物館の図録に「竹筒」があったのだ。お茶室に在る花入れのように、古びていて目立たない竹筒だ。キリシタンにとって竹筒とは、大切なものが入っている「the 竹筒」であったらしいのだ。ロザリオやメダルやキリストの絵を、紙や布でくるんで竹筒の中に入れて隠したのだそうだ。仏壇の中や天井の梁に隠されていたのを、最近になって旧キリシタンの方々が公開し始めた、ということなのだ。
六角の井の鎮西八郎源為朝の伝説は、もしかしたら江戸時代の17世紀末から殊更に言い始められたのではないか。大島から矢が届くと言う大げさな話は、「いかにも荒唐無稽な伝説」を演出している。と思うのだ。名所だけど、興味のある人だけ見に来てね、そんなアピールだ。
1708年の京都の大火以降、キリシタンにとって「六角」とは、京都にある獄舎のことだっただろう。この年に小川牢屋敷が六角通に移転して、六角獄舎と呼ばれたのだそうだ。京都はキリシタン殉教の地でもある。1619年(元和5)、52名のキリシタンは牢獄から引き出されて、鴨川の六条河原の刑場で磔になった。下京区菊屋町にあった「だいうす町」の人達だった。この情報は京都と緊密な連絡網があった鎌倉に、すぐに伝わったと思うのだ。八角形のこの井戸を、彼らは殉教を記念する巡礼地の一つにした。としよう。竹筒に隠された鉄の十字架はすでにボロボロになっていて、矢の根なのか十字架なのか判断がつかなかっただろう。でも、竹筒の入っている井戸は聖水の井戸になって、巡礼者を慰めただろうと思う。
戸塚の宿を過ぎたら鎌倉入りだ。豊後竹田の殿様が作った東渓院の前を通り、キリシタン武士が十字架の旗を揚げて討ち死にした大阪城落城の残影である東慶寺の前を過ぎる。そして明月院の山々は、その時もまだ礼拝所を隠し持っていたのではないか。
亀ケ谷を過ぎ薬王寺の前を通る。3代将軍家光の弟「乱心した暴君」の徳川忠長の慰霊碑と、蒲生レオン氏郷の末裔が眠る薬王寺だ。あるいはそのあたりは旅人が通れない道だっただろうか。そうして大町に至る。妙隆寺があり、日蓮の処刑を免れた「クビ継ぎのぼた餅」常栄寺があり、大町の祇園社をおまいりする。祇園社の護符にはXが隠されていて、キリシタンの人達にも人気だったそうだ。米町、辻町、乱橋、魚町を通り、光明寺のお十夜を参る。その先が六角の井だ。はるばると江の島が見える景勝地である。そして1623年(元和9)、フランシスコ・ガルベス神父が捕縛された港が、ここから真正面に見えるのだ。
キリシタンはローマで使われていた現行の太陽暦を使って、日を数えて祝日を祝っていたそうだ。そのマリアの祝日や万聖節が、江戸時代の旧暦の祇園祭やお十夜に重なったとしたら、その年にはいっそう華やかな賑わいだっただろうと思うのだ。
参照:野崎観音の謎 神田宏大著 文芸社
鎌倉はキリシタン大名とキリシタン民衆の痕跡の残る町だ、そう仮定して町を眺めると、江戸時代の鎌倉が生き生きとよみがえる、ような気がする。
追記:烏丸光広(1579年天正7ー1638年寛永15)の次男が六角院といって、そこから藤原北家の六角家は始まるのだそうだ。そして烏丸光広という人の奥さんが結城秀康の未亡人の鶴姫だそうだ。
参照:120.近松門左衛門の1719年
そして光広は細川幽斎から古今伝授を受けた人なのだそうだ。私にとっては「古今伝授=洗礼」である。
参照:116.江戸の狂歌師 酔亀亭天広丸
キリシタンというキーワードで歴史を探検していくと、おなじみのメンバーが度々出て来るのだ。
追記2:大町四つ角の近くに町屋址と書かれた石碑が建っている。
参照:鎌倉史跡碑 町屋址(まちやあと)
町屋址 碑文
此辺は往昔に於ける鎌倉繁栄当時の賈区にして 其の中央の通街を大町大路と呼び 其他米町 辻町 魚町 名越等の区分あり
夫々町屋の在りし所とおぼしく 其称は屡々(しばしば) 東(吾妻)鑑に見え 今に其名を存す
昭和十一年(1936)三月建 鎌倉町青年団
「米町」「辻町」「魚町」には十字架とキリストが隠れている。名越は今は「なごえ」と読むけれど、江戸時代は「なごや」と読んだ。
1664年に尾張藩内で207人のキリシタンが殉教したそうだ。1667年にも尾張で756人。名古屋から逃れて来た人も、いたのかもしれない。
名越は名古屋と関係はない。鎌倉は鎌倉時代の名勝地だ。でも、と思う。江戸人は水戸光圀の鎌倉案内「鎌倉志」を持って、江戸幕府おすすめの江の島詣でをして、キリシタンの殉教地を、京都と名古屋も含めて、鎌倉で巡ったのかもしれない。そう思う。
!?それなら、戦前の鎌倉町青年団って、キリシタン遺跡を知って石碑を建てた、ということだ。
参照:キリシタン遺物と思われる石碑と石仏
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