鎌倉市の中央公園には しし石 という魅力的な大岩がある。徳川光圀が編集した17世紀の「鎌倉日記」や「新編鎌倉志」、幕末19世紀の「鎌倉覧勝考」や「新編相模国風土記稿」にも掲載されていない。「かまくら子ども風土記」にも載らないこの大岩の謎を、地図上からあれこれと想像して来た。
参照:18.鎌倉の獅子(1)
しし石と同じ北緯に、天園(てんえん)にある大岩「獅子巌」がある。「新編鎌倉志」には「吾妻鏡」に載っている記事(西御門の赤山に陰陽師が登って測量したこと)をここにわざわざ引用して
獅子巌の南の「 」と禪興寺が「まさに東西にある」
と語っている。「」は文字が欠けている。夜明け前にセキサンに登った陰陽師たちは、欠け始めた18日の月を確認して、日の出を「東」と語っているのだ。これについては別に項を設けて語り尽くしたい。1257年の旧暦8月に、月と日の出と星々がどう見えたのかを、再現して見てみたいと思うのだ。枕詞に星月夜と歌われる鎌倉に、ぜひプラネタリウムが欲しいと思う理由の一つなのだ。
光圀が獅子巌を語ったことで、獅子巌は観光名所になり、中央公園のしし石は「消されてしまった」。そして私も、光圀に惑わされた。東西に獅子の岩が2つある、と思い込んだのだ。
建長寺の山頂から天園にかけて、個性的な大岩はいくつもあるというのに。
獅子は一匹で屹立していたのだ。中央公園のしし石のことだ。それは四神の白虎である、と思う。
巨石文化は奈良の斑鳩の里に残っている。巨岩を刻んで、まるで自然に出来たかの様にしし石と言う、その趣味は平安時代よりも古いものだ。後に陰陽師達がこの岩を利用して呪術を図ったとしても、作られたのはもっと古いものだと思う。
中央公園のしし石を、西を守る白虎(びゃっこ)としてみよう。白虎は街道を意味していて、中央公園の峯には鎌倉の古道が通っている。
さて、その真東には浦賀水道がある。三浦半島と房総半島に挟まれた東京湾の入り口である。巨大な水の流れ。これが堂々たる青龍(せいりゅう)、東の神だ。
しし石から東に引く北緯35度19分58秒の線は横浜市金沢区の八景島に当る。その六角形の魅力的な建造物が東のドラゴンだとしよう。なにせイメージは遠く明日香の時代なのだ。ここに龍神を祀る岩礁があったに違いない、と思い込む。
海面は今よりも2mほども高かったそうだ。
北には玄武がある。亀と蛇は雌雄であったという伝説のもとに黒い森、山を表す北の神だ。
そこは横浜市港南区の日野インターチェンジの南。山脈の裾の残りがわずかにあるあたりである。住宅地になった山塊があった。
そして南は神奈川県逗子市桜山。朱雀(すざく)は赤い鳥で表現される。窪地である。
1万分の1地形図「葉山」(国土地理院) にあるその朱雀のポイントは、驚異的な場所だった。
東西に延びる桜山の尾根をすっぱり断ち切って、窪地が真北に延びていた。一目見て、人為的な加工された地形だった。
これは何だろう。驚きよりも「なぜ!?」という疑問に突き動かされてしまう。
真北に向かう峡谷をまるで覆い隠すかの様に、別の山の端が入り口を隠していた。断層ができた跡かもしれないとか、川の流れが作った偶然の直線かもしれないとか、そんな疑問は出ない。誰かがここに、真北に向かう谷を掘削したのだ。
その労働量を思うと、巨大な古墳を作った人達が長い時間をかけて作ったとしか思えない。
両側に切り立った崖を持つ南北に細長い地形。それは北天の地軸を廻る星を測るのに好都合だ。夜空には目盛りが付いていないから、両側の崖で切られた北の空は、占星台の窓から見る様な効果が得られただろう。北斗七星が右の崖から現れて左の崖に消えていく。それを測ることが出来る。
参照:106.鎌倉の占星台
また昼の12時、真南に南中する太陽を見るのに好都合だ。
谷間のどこまで日光が入るのか。南中高度を測ることで、あと何日で夏至になるのかがわかる。もちろん小さな日時計でもいいけれど、巨大な施設を作ると一目盛りが大きくなるから、より精密な測定ができる。と思う。
参照:72.環状列石のしくみ
73.環状列石の使い方
74.関谷の縄文とスバル
つまりここは、地形で作った占星台、天文台なのだ。と思う。
「歴史的農業環境閲覧システム」という便利なサイトがあって、ここで1882年(明治15)当時の鎌倉近辺の地図を見ることができる。陸軍省測量迅速図というのだそうだ。
まだ横須賀線も東海道線も無い地形図は興味深い。
桜山の古代天文台(と言ってしまおう)は、この図にもくっきりとあるのだ。
陰陽師は古代の大岩を利用して四神を仕掛けた。それは中心地を守るためにある。
中心はK倉霊園の北、泉が谷の山頂だ。天園ハイキングコースから武相隧道の山上へ抜ける道の途中だ。小さな平地である。
その東は金沢八景の港。直線距離で3、2km。または南下すれば、鎌倉市十二所の泉が谷から滑川に沿って、731年(天平3)創立の杉本寺まで、やはり3、2km。
参照:48.ふたつあることについて
そして何よりも、この中心点の北には横浜市栄区の上郷森の家がある。その自然観察の森には広い台地があって、ハイキングコースの山頂からは江ノ島だって見えてしまうのだ。
伝説の染屋時忠の邸宅は上郷の長者久保にあったのだそうだ。鎌倉の長谷に在る710年(和銅3)創立の甘縄神明宮を建立した人だ。彼の城塞がこのあたりにあったと、想像したい。ミステリアスな「見えない野七里」を眼前に、古代の上郷と四神の中心地はどうしても重なってしまうのだ。
参照:99.染谷時忠の屋敷跡
参照:97.今泉不動の謎
参照:98.野七里
追記:
東京湾に立つ八景島の青龍と、桜山の人造渓谷(そう決めつけてしまった)の朱雀。それと比較すると、さすがのしし石もちょっと小さく見えてくる。
それで想像してみた。昔、しし石はもっと大きかったんじゃないか、と。
逗子市にある神武寺の磐座であっただろう湘南鷹取山は、石切り場と言われて、事実山頂の岩はどんどん切り出されて使われたのだそうだ。そんなふうに、しし石も削られた時代があったのかもしれない。
しし石のある所はかつては水田だった。今も水路があって、山の土を押し流している。しし石の存在を快く思わなかった人達は、つまり、新しく政権を取った関東の武家は、しし石を埋めた、と想像してみよう。ちょうどエジプトのスフィンクスが首だけ出して砂漠に埋まっていた様に、現在のしし石はてっぺんだけ出ているのかもしれない。
その下の巨大な岩隗を発掘したら、もしかして作者のサインがある?その姿はもう獅子の形をしていないかもしれないけれど、ずっと深い地中の最下部には、大きな爪を立てた獅子の足が埋もれているのかもしれない。シルクロードにある様な大きなヒョウの足があったらいいなあ、と思う。