歌舞伎の義経千本桜が鎌倉芸術館であったので、家族で観に行った。釣瓶鮨屋の場だ。
終わってから話に花が咲いて、ああでもないこうでもないと語り合えるのは、印象的な劇だったからだ。片岡仁左衛門さんの演じた「いがみの権太」はものすごく魅力的だった。
このHPの左下に小さな写真をいつも掲げてある。鎌倉にある1680年の庚申塔の文字を撮ったものだ。
奉納という文字は書きかけの様に見える。間違えた様な変わった字を329年もの間そのままに、大切に保存されて来たのだ。かつて鎌倉に住んでいた人達の心からの信仰を表した石碑だ。鎌倉の貴重な財産だ。
参照:141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
この文字にギリシャ十字が描かれていて、キリストの十字架の3本の釘と釘抜き、梯子までがここにある。そう見る事が出来た時から、この+キリシタンと江戸文化+のページが始まったのだ。私には重要な庚申塔なのだ。
その石碑の(納)という文字の釘抜きの下に、地面に立つ小さい十字架を書き加えてみよう。それは「経」という字になるだろう。義経千本桜の「経」だ。
その下に「千」。頭上に「INRI」という文字盤をつけてキリストは十字架にかけられた。その十字架がここに在る、としよう。
次の「本」という字は「大」という字の下に「十」と書く異字体がある。
だから義経千本桜と歌舞伎の小屋に題字を掲げたのなら、その中央に3つの十字架が並ぶのだ。そう見える様にも書ける、ということだ。
「千本桜ー花のない神話ー」渡辺保 著 東京書籍。という興味深い本を読んだ。知らなかった事がたくさん書いてあった。
義経千本桜の初演の1747年(延享4)の春に、桜町天皇は譲位した。それは幕府に強いられた譲位だった。
桜町天皇は途絶えていた大嘗祭や新嘗祭を復活させたのだそうだ。天皇の祭祀の行事を復活させたのだ。それは江戸幕府にとっては、困った事だったのだろう。
それで桜町天皇は譲位して、桃園天皇の時代になった。15年ぶりに上皇が誕生したのだそうだ。
仙洞御所桜町殿へ入られ、桜町上皇となられた
「千本桜ー花のない神話ー」の語り口は明快だ。その上皇の御所に鮎鮨を収めていたのが吉野の鮎鮨屋なのだそうだ。今回の演目の釣瓶鮨屋のモデルなのだ。
仙洞御所が復活して、15年ぶりに鮎鮨を大量に納品できるのだ。それは銀で支払われるのだそうで、降って湧いた鮎鮨景気である。
天皇と幕府との軋轢は庶民には関係の無い出来事の様だけれど。吉野の好景気は大阪で消費される。鮎の漁師も鮨屋も、運送業者も、こぞって歌舞伎を見に来たかもしれない。
義経千本桜という演目は源義経が静御前と吉野で別れて、平泉まで逃げて行く物語だ。静御前は吉野で捕まって鎌倉に送られる。鎌倉の鶴岡八幡宮で、源頼朝の前で、あの有名な歌を舞い謡う運命に向かう。
義経千本桜という題名は桜の名所の吉野にふさわしく自然に感じるけれど、舞台となった季節は冬で、桜は咲いていないのだそうだ。
ではなぜ千本桜なのか。本の著者の渡辺保さんは明快に書いている。
センボンといえば桜以外のものを連想する可能性が生きていたからではないのか
センボンといえば桜よりも先に連想するものを意識的に暗示していて、サクラに、、、結びつけたのではないか
千本桜とは何を示しているのか。
この本では京都の千本通りが紹介されている。平安時代に、千本通りには千本卒塔婆が立っていて、船岡山に在る蓮台野という葬送の地へと続く。
吉野では卒塔婆の隣に桜が植えられていて、それは埋葬された人を忍ぶ墓標の桜、なのだそうだ。
千本桜とは、名前の残らなかったたくさんの人達の墓標なのだ。そして。
千本桜とは何か。
それは千本松原を暗示する。と、私は思う。
名古屋市に千本松原という刑場があった。そこで1664年に207人のキリシタンが殉教した。尾張二代藩主徳川光友が刑場跡地に清涼庵を創建、後に清涼山栄国寺となり殉教したキリシタンの弔いをしたそうだ。栄国寺がその千人塚を守り、今も私たちに、尾張の二千人にも及ぶキリシタン殉教を伝えている。
参照:歴史探訪 栄国寺
参照:歴史探訪 千本松原
実は千本松原は日本中に在る。川の土手や海岸線に松が植えられて、千本松と呼ばれるのだ。尾張の栄国寺よりも古い千本松原の故事を福岡で見ることが出来る。
1588年。豊前国の城井・若山城城主、城井鎮房(宇都宮鎮房)は大友義鎮(大友宗麟)の義弟であり、黒田シメオン考高(黒田如水)と戦っていた。豊臣秀吉の後ろ盾で考高は鎮房と和平を図る。鎮房の娘の千代姫(鶴姫)と考高の息子の黒田ダミアン長政は結婚することになった。
ところが長政は城井鎮房を謀殺する。そして千代姫は侍女ら13人とともに、千本松原で十字架に掛けられたのだ。千代姫は13歳だった。
毎年4月22日に吉富町の供養塔の前で、城井一族の菩提寺の天徳寺のお坊様がお経を上げて供養をするのだそうだ。豊臣秀吉がバテレン追放令を出した翌年の、十字架上の死であった。
千本松原は各地にあった。そこは川や海に接していて、天女が降りて来そうな風光明媚な場所でもあり、ある時代には刑場でもあったのだろう。
千本桜は千本松を思い出させる。松が桜に変えられたのだ。
松という字は木編に公と書く。公とは公達(きんだち)。親王の息子達を言うのだそうだ。そして義経の時代では、平家の子息も公達と言ったのだそうだ。そしてあの、壇ノ浦で二位の尼とともに海に沈んだ安徳天皇は、平家の子息でもあった。
義経千本桜には安徳天皇も出てくる。壇ノ浦で死んだはずの安徳天皇は生き延びていて、今は廻船問屋渡海屋の娘、お安、になっている。そう、安徳天皇は女帝だったという設定なのだ。
公は女に変えられた。
千本松原は千本桜に変わっていて、墓地は桜の名所に変貌するのだ。
「泰平の江戸時代」である。
義経千本桜の釣瓶鮨屋の場は、いがみの権太が絶命する場面で終わる。主人公の権太は腹を刺されていて、苦しい中に座っているのだ。それを後ろから母親が抱えて、助け起こしている。父と妹は背中を丸めて泣き伏している。
それは見事なピエタ、キリストの十字架降下図、だった。
母の腕の中で死んでいくというのが、最終場面なのだ。キリストは死んでから抱えられたのであって、劇とは違う。上演された今回の場面は、権太は合掌していて、まるで座禅を組んで入滅した行者の姿の様だった。だからそんな想像はできないだろう。だけど、かつての演出はどうだったのだろう。
苦しむ権太がもろ肌脱ぎになって、右にある腹の傷を見てから、横たわる様に絶命したのだったら。それを母が支え、嘆いていたのだったら。
それは誰もが知っている踏み絵の耶蘇図、そのものだ。舞台の中央に踏み絵のピエタが再現されている。満場の観客が、その中央の死んだ青年に涙しているのだ。
妻子を犠牲にした彼だから「咎(とが)なくて死す」とは言えないけれど、誤解されて殺される権太を、観客は哀れに思うのだ。それが義経千本桜の釣瓶鮨屋の場の最終場面なのだ。
1747年の大阪の観客はこの劇を大喝采で迎えた。渡辺保さんは、
菅原伝授手習鑑 古今の大入
仮名手本忠臣蔵 古今の大入
と書き出して、
義経千本桜 古今の大当りにて大入なり
と比較している。大喝采の理由の一端はキリシタンのタブーを分かり易く見事に破ったからだ、と私は思う。
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