231.深沢の星景色
***国土地理院の1万分の1地形図「鎌倉」をぜひご用意ください。地図に線を引くと鎌倉の各地にある「星を見ていた視線」が現代に蘇ります。天眼鏡もあったら良いでしょう。***
神奈川県鎌倉市に鶴岡八幡宮があります。その流鏑馬(やぶさめ)の馬場の先に、織姫星が渡って来ます。その時に彦星は三の鳥居の上に見えるでしょう。北西297度に織姫星、南西255度に彦星を眺めるのです。この中途半端な方位は、織姫星と彦星を見る事が目的ではなく、2つの星は目印に過ぎないことを教えてくれます。この位置に星が揃うと、真東にすばる星がありました。このすばる星を見るための仕掛けなのです。
「統」と書いて「すまる」と読みます。束ねるという意味は統治するという意味でもあります。八重山諸島の古謡は、「天帝が地表を治めよと言い、すばる星はハイと答えた」と歌います。星の昇る東方に、地上の王、すばる星が立ちます。
鶴岡八幡宮の流鏑馬の馬場は、織姫星の方位の北西297度に作られています。若宮大路から続く参道に直角に交わる道です。道の先の鶯谷の山頂に織姫星が渡って来ます。それを見ていた場所に、今は「畠山重忠邸趾」と彫られた史跡碑が立っています。一般に碑の立つ場所は重要な拠点です。畠山重忠邸として重要でもあり、語られてはいませんが町の設計上の拠点でもあります。ここから見れば、すばる星は大倉幕府の上に輝いていたでしょう。昇り龍の勢いで東国を制覇した頼朝を讃えるデザインなのです。
隣町藤沢市の宮前御霊神社は地形図「大船」に載っていますが、参道は地形図「鎌倉」にあります。この宮前御霊神社の参道は、若宮大路と同じ向きに作られています。だから参道に直角に交わっている297度の道が、流鏑馬の馬場と同じ働きをしていて、織姫星を待つ道になります。この道も馬場と呼ばれていた時代があったのかも知れません。藤沢市が発行した「藤沢の地名」には、神社の参道が柏尾川に出会う地点に「馬場先」という地名が残っていました。
宮前御霊神社の297度の道を南東に延長すると清明塚に当たります。ここに立って、星を待っていたのです。今では畑地と道の中央にある三角地になって、清明塚という名は書かれていません。それでも、地域の人たちは、ここを大切に残していたのです。
直線道の先に織姫星が渡って来ると、真東にすばる星が来ています。清明塚の真東に、今は「洲崎古戦場跡」と彫られた史跡碑が立っています。この場所は昭和31年に開発されて市営住宅になりました。その時に出来た碑です。開発を残念に思った人が居たのでしょう。洲崎という広い地域の中で、「ここに」史跡碑が立つのには意味があったのです。清明塚から見れば、この上にすばる星が輝いています。ここに有名な武将の館があったと夢想してみます。後に鎌倉幕府の滅亡の時に、北条氏は彼にあやかって、ここに戦いの本陣を置いたのでしょうか。そして鎌倉将軍が自刃したのはここであっただろうと想像します。それは星の景観を清明塚を基準にして作ってから、400年も経った後の戦いでありました。今は観光道路が敷かれて、その跡形もありません。鎌倉市の平和な日常の光景が広がっています。
清明塚から織姫星の渡ってくる297度の線を南東に伸ばします。柏尾川を渡って、「深沢小学校入口」交差点に当たります。その先は深沢の御霊神社の参道です。交差点から織姫星の向きを眺めると、宮前御霊神社の道の先の、法善寺に当たります。鎌倉時代に北条氏が創建したお寺は、何の跡地に建立されたのでしょうか。それは星を祭る神社であったかも知れません。その山の上に織姫星が渡って来ます。
次に彦星の向き255度を交差点から眺めると、そこに椿地蔵の灯明が見えます。地形図「鎌倉」には記念碑と水準点のマークがあります。ここに火が灯る事が大切だったのです。この時東の山頂にすばる星が見えています。
「深沢小学校入口」交差点の東に居を構えた人は誰だったのでしょう。その人を地上の王にと願った人たちが居たのでしょうか。おそらく廃寺になった大慶寺の上に、すばる星が輝いていたのでしょう。大慶寺は鎌倉時代に執権北条氏が建立したお寺だそうです。その前はこの場所に何があったのでしょうか。大慶寺の大伽藍が並んだ場所です。めでたい逸話のある場所を選んだのではないでしょうか。今となっては消えてしまっている伝承がこの地にあったのだと想像しました。
現在の大慶寺は寺分1丁目にありますが、昭和13年に邦栄堂書店が発行した「鎌倉及江之嶋地圖」を見れば、駒形神社の南東に大慶寺跡があります。現在、寺分3丁目は分譲地になっていますが、そこから見る景観が今も残されています。素晴らしい事です。今も昔も「深沢小学校入り口」交差点は見ることが出来ません。深沢の御霊神社の山に隠れているからです。でも大慶寺跡周辺から見る景観は鎌倉時代の景観を呼び戻します。御霊神社の山が見える州崎の景観です。地図の上では川名御霊神社の鳥居まで、2.4km弱の東西線が引けます。かつての遮る物の無い展望を想像できる景観が、大平山の住宅地には残っていたのです。
鎌倉市梶原1丁目に不思議な辻があります。星を見る辻です。今回一番語りたかった場所のお話です。
深沢の御霊神社から南東に旧道が伸びていて、今はない加護社の前を通り、庚申塔のある辻に着きます。地形図「鎌倉」のこの辻に赤丸印を入れます。
1)ここには北東から南西へ川が流れていて、それは夜空に光る天の川の向きに重なります。ハクチョウ座が天頂に上がった時の天の川の向きです。川に橋を架けると、ハクチョウ座の十文字と重なります。天と地のデザインが鏡に映った様に揃うのです。北東から南西へ天の川が、北西から南東へ街道が交わる所です。そこに東西南北を加えれば、8つの方位が示されるでしょう。天の八街(やちまた)の交差点に立つ神は、赤ら顔の猿田彦です。だからこの辻には道祖神が祭られていたのでしょう。
2)この辻から297度の織姫星を見る視線を書き加えます。柏尾川を越えて弥勒寺と法善寺の間に当たります。ここが山頂であった時代があったのでしょう。村岡の山は柏尾川まで細く突き出していたのだそうです。
次に255度の彦星を眺める向きを加えます。線は深沢クリーンセンターの山頂54mに当たります。とんがった山頂の上に彦星が渡って来る時、その時にすばる星が真東に来るのです。この辻の東に、地上の王が住んでいたのでしょうか。そこには今は梶原の住宅地が広がっているだけです。
3)最も重要な方位の一つだと思われる北西320度の線を、今まで語っていませんでした。この向きに、織姫星が沈みます。ハクチョウ座も猿田彦もここに沈みます。そしてハクチョウ座の中心にあったとされる赤い御中星(みなかのほし)が、この位置に沈んで行っただろうと思われます。赤色巨星の御中星が爆発し消えて見えなくなったのは平安時代であっただろうと真鍋大覚先生は語っています。
藤沢市宮前の清明塚に立てば、320度に宮前御霊神社があります。
「深沢小学校入口」交差点に立てば、320度に高谷太神宮があります。遮る物の無い景観です。灯明はよく見えたでしょう。
そしてこの不思議な梶原の辻に立てば、320度の先に深沢の御霊神社があります。深沢中学校の山の向こうですから灯明は見えなかったかも知れません。でも織姫星が降りて行く山を指して、あそこに御霊神社があるのだと語り合ったかもしれません。あるいは今は無い加護社の灯が、320度の線上にあったかもしれません。
梶原の不思議な辻は、旧道の向きに、川の流れに、山の位置に、鎌倉時代に生きた人々の視線を残しています。ここに立って星を見ていた人が、確かにここに居たのだと思わせる場所なのです。
そしてここから見たすばる星は、いったいどこを照らしていたのでしょうか。辻に「星を見る仕掛け」を作ったのは、すばる星を東に迎える為です。どこから見たら星と館が重なるのか、それを考えて選ばれた場所が、この不思議な辻なのでした。いったい誰の館の上にすばる星を置いたのでしょうか。
そこに梶原一族の館があっただろうと想像してみます。源頼朝の一の郎党と呼ばれ、鎌倉の離山(はなれやま)と十二所(じゅうにそ)に名を残す梶原景時が、梶原の不思議な辻を作り、川を天の川に重なる様に整備したのだと思われるのです。 参照:「星月夜の鎌倉と塔の辻」きし亀子
ここまでで、国土地理院の地形図「鎌倉」には沢山の直線が引かれたはずです。その直線は、茫漠とした河川敷を越えてその先まで見通すことが出来た時代の、景色を見ていた痕跡です。今は叶わぬそのいくつかの視線は、モノレール湘南深沢駅の北を通っています。鎌倉市が再開発計画を進めているJR大船工場跡地の上を通っているのです。
ここに十数階にもなる高層マンションが林立する、その風景を思い浮かべます。悲しい事に、深沢に残された鎌倉時代の景観が消されようとしているのです。その星の文化は、今なら更地になった工場跡地から復元することが出来ます。星月夜の鎌倉と歌われた鎌倉の星の文化です。
北斗七星を崇める北辰信仰は、桓武天皇の第三皇子の葛原親王(かずらはらしんのう)とその母の多治比真宗(たじひのまむね)が伝えたと言われています。真宗のひいおじいさんが多治比池守(たじひのいけもり)で、長屋王を死に追いやった人達の一人です。その兄弟に多治比阿伎良(たじひのあきら)という姫君がいました。アキラとは今も使われている星座の名前で、ワシ座のことです。シルクロードを越えて中東から来た星座の名前です。その名を持つ姫君が飛鳥時代にいたのです。何とステキな事でしょう。
星座のワシ座の一番明るい星が彦星で、南西255度の向きに彦星が来ると、すばる星が東に掛るのでした。
平良文の屋敷跡と言われる宮前御霊神社と、呼応する深沢の御霊神社の、その線上に高層建築が建たない様に願わずにはいられません。柏尾川の川岸にある清明塚から州崎古戦場跡碑までの線上を見通すことができる様に、平安時代から続く景観を再生できるのは、今しかないのだと思います。
先日、再開発に住民の視線をと「洲崎陣出の杜の会」が発足されました。「洲崎」についても「陣出」についても、語り尽くせない物語りがあるのでしょう。鎌倉時代はここ洲崎から準備され、ここ洲崎で終わります。平安時代に川向こうに村岡五郎平良文が館を構えてから、1333年にここで幕府が滅亡するまで。その景観を少しでも再現できる場所の再開発が、どう計画されるのか。鎌倉の歴史的財産が再生されるのか、されないのか。とても心配です。
「土地の記憶を現代に蘇らせる創り方」と「州崎陣出の杜の会」は語ります。高層建築の建つ場所がどうか星の視線に掛らない様にと、願うばかりです。