+キリシタンと江戸文化+ + 「鎌倉、まぼろしの風景」から、小さなリーフレットができた。「星月夜の鎌倉と塔の辻」という題名で地湧社から。鎌倉市内の書店、ギャラリーやカフェで販売中です。
*ブックスモブロ(大町)*ミルクホール(
小町)*北鎌倉ギャラリーNEST(台)*ミドルス(長谷)*てぬぐいカフェ 一花屋(坂の下)*ソンベカフェ(御成)*北鎌倉ベルタイム(山ノ内)*紅茶専門店ミミロータス(御成)*亀時間(材木座)*ギャラリー伊砂(小町)*MOWAもわ(由比ケ浜)*コーヒーと音楽 笛(山ノ内)*邦栄堂書店(雪ノ下)*島森書店(小町)*松林堂書店(小町)*たらば書房(御成)
+209.鎌倉キリシタンの伝承 1 1623年(元和9)にキリシタンの江戸大殉教があった。この年に徳川家光が三代将軍になり、弾圧がいっそう厳しくなったのだ。今まで見逃されてきた天領にも迫害の手が伸びた。 レオン・パジェスの日本切支丹宗門史 中巻 岩波文庫 には10ページに渡って江戸大殉教の様子が書かれている。 キリスト教カトリックの大本山であるバチカンに報告する宣教師達の手紙は、信頼性に乏しいと言う人が居るのだそうだ。日本は伝導をするに値する国であると繰り返し語るからだ。宣教師の活動の成果を実際以上に大きく報告していると、疑うのだ。そうかもしれない。でも、キリシタンについて書かれた記録は江戸幕府によって消却されている。だから残ったものから推測するしかないのだ。 この本に従って、江戸と鎌倉で何が起こっていたのか、元和9年の事件を追ってみる。 1623年(元和9)この頃、江戸にはたくさんの宣教師が居た。そのうちの二人、イエズス会のヒエロニモ・デ・アンゼリス師と聖フランシスコ会のガルベス神父。 二人とも日本に来て20年以上になり、日本語で雄弁に語る人だったそうだ。 もう一人の重要人物、原ヨハネ胤信(原主水 はらもんど)がいた。徳川家康に仕えていた彼はキリシタンの迫害が始まると駿府城を脱出。しかし1615年(元和1)に捕縛され、安倍川の畔で手足の指を切られ、額に十文字の烙印を押されて、放たれていた。この頃はまだキリシタン即死刑、ではなかったのだ。 彼が落ち着いたのはかつて教会堂のあった新浅草鳥越村あるいは浅草寺の近くだった。 将軍が家光になり弾圧が厳しくなる1623年(元和9)。かつて家来であった人が密告したために原胤信は捕まり、名の挙がった二人の宣教師達の捜索が始まった。 デ・アンゼリス神父は事態を終わらせるために自ら名乗り出た。仲間に加えられる拷問を避けるためだった。 ガルベス神父ら一行5人は鎌倉に逃れ、ヒラリオ孫左衛門に匿われた。しかし鎌倉の海岸から船で逃げる所を捉えられた。 12月4日、日本橋の伝馬町牢屋から高輪の刑場となった札の辻まで、火刑になるために50人のキリシタンが歩いていった。将軍家光が50人を火刑にすると言ったから、50人なのだ。 この時に先頭の集団で馬に乗っていたのがイエズス会のデ・アンゼリス神父だった。彼はそれまでに仙台を拠点に東北一帯を歩いて、伝導を続けていた。津軽の高岡(弘前)には京都や大坂、越前、加賀、能登、越中から逃れて来たキリシタン達がいた。 日本の商人の姿をして町を巡っては、ミサを行い、洗礼を授け、告解を聞いた。1618年と1620年には蝦夷(えぞ)地にも渡った。蝦夷松前(まつまい)藩主は2代目公広(きんひろ)であった。「天下がパードレ(神父)を日本から追放したが、松前は日本ではないので心配は無い。」そう言って松前藩は神父を優遇したのだ。1618年はソツコ(福島町字松浦)と大沢村(松前町大沢村)で金山が見つかり、1620年は砂金を幕府に献上した年だそうだ。金山には多くのキリシタンが逃げ込んでいた。北海道は最後の安住の地であったのだ。しかし、その松前公広も、後に千軒金山などでキリシタン106人を処刑することになる。 ガルベス神父は2組目の集団の先頭の馬に乗って行った。20年前、27才の時に日本にやって来た彼は、伊達政宗に優遇されて最上に教会堂を持つことができた。禁教令が出された時に、彼は日本を去る予定だった。布教の地は日本だけではない。しかし東北には流罪になったキリシタンがたくさん住んでいて、彼らはローマ法王から派遣された神父の来訪を心から待ち望んでいた。侍である事をやめて農民になり、密かにキリシタンでありつづけようとした人達が居たのだ。その人達の側に添うために、彼は国外退去をしなかったのだ。 二人の神父は刑場までの間、説教を続けていた。一緒に刑場まで歩く人達への励ましであっただろうと思うけれど、沿道の沢山の見物人達も、説教を聞いていたのだ。キリシタンであることを止めた沢山の人達が混じっていただろうと思う。 第三組の先頭が原胤信である。不自由な体で、大きな馬に括り付けられていた。見ている群衆に向って、先触れが伝えていた。「将軍様がキリシタンをお嫌いなさることこの通り。お身内でも容赦はない。」 参照:日本切支丹宗門史 中巻 レオン・パジェス 岩波文庫 参照:キリシタンゆかりの地をたずねて 東京都 港区 元和のキリシタン殉教碑 芝口札の辻 参照:原主水の生涯 高木一雄 刑場に十字架が立った。その時、ある大名が家来を引き連れて現れた。彼は馬を降りて、なぜ彼らが刑を受けるのかと聞いた。 キリシタンだからだと聞くと、彼は「予も又彼らと同じくキリシタンである。彼らと同じ運命に遭わしてもらいたい。」と言った。 これは多分、刑の執行を止めさせるためにこの大名は家臣を引き連れて追いかけて来たのだ、と想像した。刑の執行を見届ける役の奉行は狼狽する。この大名をどうしたらいいのか、主席の老中に相談するため使者を江戸城に送った。 老中は決断することができなかった。それほどこの大名の存在は大きかったのだ。将軍家光はこの大名を捕らえて一緒にせよと命じた。五人の側近が彼に従ってキリシタンに加わった。すると従って来た300人もの家臣が、キリシタンだと告白して刑に加わろうとした。 刑は人々が多く通る街道で目立つ様に行われた。そこで公衆の面前で、ある大名がキリシタンだと告げたのだ。 それ以前に、日本橋、京橋、銀座、品川と歩いて来た間に、自分もキリシタンだと告げて刑に加わろうとした人がいたそうだ。彼らは牢に入れられて処刑された。この大名も捕縛されて、伝馬町牢屋に入れられたのだろうか。そして彼は、誰だったのか。あるいは、本当に存在したのだろうか。 この江戸大殉教で火刑になったヒラリオ孫左衛門は鎌倉に住む人だった。Hilarioと書いてイラリオと読むから、当時の人達はイラリオと呼んでいたのだろうと思う。鎌倉市小袋谷のあたりに9年間も伝導所があったのだそうだ。その責任者であっただろう。あるいは本当の指導者を隠し護るために名乗り出た人だったのか。 妻の名はマリーナ(あるいはマリア)。夫とともに捕縛された。その時に、一番良い着物に着替えたというエピソードが伝わっている。キリストに近づくのだから晴れ着をと、語ったという。 彼女はこの50人の火刑の後、12月24日に処刑されたらしい。妻や子供、親族の外にキリシタンではない人々もいた。匿った人も同罪になったのだ。その数37人。江戸大殉教は50人だけではなかったのだ。殺された多くの人達の名前はわかっていない。 キリシタンを調べる人なら、この江戸大殉教はあまりにも有名だ。だけど江戸の歴史を語る時に、キリシタンという言葉が出てくるだろうか。TVドラマの時代劇にどれだけのキリシタンが登場するだろう。キリシタンは九州の歴史として語られて、関東地方のキリシタンはほとんど語られない。九州にしか居なかった、と思われている。 それは巧妙な情報操作の成果だと思う。 鎌倉には9年間も伝導所があって人々が通っていたのだ。 1623年(元和9)から9年を引いてみる。 伝導所ができたのは1615年(慶長20・元和1)。 小田原城主大久保忠隣が改易になった翌年。 参照:
194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷) 大坂夏の陣の年だ。 参照:112.東慶寺の姫 大坂城内で戦って破れたキリシタン侍が自殺を嫌い全国に散らばった年に、鎌倉の伝導所ができている。 鎌倉キリシタンの隆盛はここに始まると私は思っている。 211.大坂城の遺児 鎌倉キリシタンの伝承 2に続きます。 +
追記1: そもそも、キリスト教が関東に広まったのは、徳川家康がスペイン商船を関東に招いた事に始まる、と言われている。フランシスコ会の宣教師ジェロニモ・デ・ジェズス神父によって1598年(慶長3)に江戸天主堂ができている。1604年(慶長9)にはスペイン商船がマニラから浦賀に来航して、スペインとの貿易が始まる。長崎の事ではない、神奈川県横須賀市の浦賀(当時は浦川)の事なのだ。 1608年(慶長13)にはフランシスコ会の修道院が浦賀にできる。その浦賀と江戸を結ぶ浦賀街道は、鎌倉の大町から山ノ内(北鎌倉)、小袋谷を通って江戸へ向う。新しい小袋谷交差点は今も交通渋滞で有名な要衝だけど、江戸時代も小袋谷は重要な辻であった。家康の館があった藤沢へ、東海道の戸塚宿へと、道はここで分かれている。目の前は玉縄城趾。小田原北条氏のお膝元だった。
追記2: 小袋谷から台山を越えると、深沢の駒形神社を抜けて常磐に出る。そこから旧鎌倉園の山を越えれば、極楽寺。海はぐっと近くなる。ガルベス神父ら一行が捕まった海だ。 料亭鎌倉園があった山の麓に、戦争で使われた巨大な防空壕がある。今は埋められて入れないけれど、内部は碁盤の目に通路が通っている。この防空壕に匹敵するのは逗子市池子にあった旧日本軍の弾薬庫だ。池子は戦後に米軍の弾薬庫になり、今は米軍住宅が建ち並ぶ米軍基地だ。 極楽寺も池子も、どちらも戦時中に掘られた巨大地下施設だ。だけど、なぜそこに大洞窟が掘られたのか、というと、そこにすでにあったからだと、考えてみる。極楽寺と池子に、大洞窟があった、のではないか。それは江戸時代から、すでにあったのではないかと、考えている。 もちろん洞窟の掘削は鉱山技術で為される。それはキリシタン由来の技術である。
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***亀子*** ( 8 Aug. 2012)
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十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
:::::目次:::::
:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
:::206.庚申様はすばる星(すばる星1):::
:::207.六所神社のすばる星(すばる星2):::
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