鎌倉、まぼろしの風景。238 

鎌倉、まぼろしの風景。


          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。


北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴

206.庚申様はすばる星(すばる星1)

207.六所神社のすばる星(すばる星2)

208.キリシタンと庚申様(すばる星3)

209.鎌倉キリシタンの伝承 1

210.東渓院の領地

211.大坂城の遺児
鎌倉キリシタンの伝承 2

212.手広村の大岡様
鎌倉キリシタンの伝承 3

213.田代寺安養院
鎌倉キリシタンの伝承 4

214.水戸光圀の鎌倉案内
鎌倉キリシタンの伝承 5

220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
鎌倉キリシタンの伝承 6

236.山崎の女領主相高院
鎌倉キリシタンの伝承 7

238.豊後国岡城主中川久盛室、久松萬姫の「伊香保記」


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)
*** ***

   

キリシタンと江戸文化

「織姫星と鎌倉」ただいま銀の鈴社で通信販売中です。

一昨年の「星月夜の鎌倉と塔の辻」の続きです。星に関する事を順序立てて再構成しました。新しい話題もあります。読んでいただけたら幸いです。

鎌倉の銀の鈴社ギャラリーと邦栄堂でご覧いただけます。

         


238.
豊後国岡城主中川久盛室、久松萬姫の「伊香保記」


 北鎌倉には明治5年まで、東渓院という寺があった。
 住職が借金をしたとか、それで財産を失ったとか、ネガティブな噂しか伝わってこない。だけど今も鎌倉市台という地域は、かつての東渓院の寺領に重なっている。台は幕府直轄領だったけれど、そこに点々と東渓院の寺領があったのだ。柏尾川を渡った北側の、大船観音の山のあたりは、さすがに台ではなくなっているけれど。
 それでも柏尾川の岸辺まで台という地名が続いていて、そこを1丁目に振り当てている。ここも台であると「1丁目」という名が主張しているような気がした。
 そして最も「台」らしい、北鎌倉の隠れ里のような谷戸は、旧番地の台のままだ。
 
 鎌倉市に残る旧番地の大船、旧番地の小袋谷、旧番地の台は、歴史が深く大切に守られた場所なのだと感じられる。東渓院も「あまり注目されないように」という配慮があって、ネガティブな噂で守られてきている、ようだ。
 大切な娘には顔に泥を塗りつけて、美人ではございませんと後ろに隠しておく。そういう配慮が感じられる。それは厳しい時代があったという証拠である、と思われた。
 キリシタンが弾圧された江戸時代の記憶ではない。国家神道の昭和の時代の記憶なのだと思っている。
 
 その東渓院は、豊後岡藩の三代目、中川久清公が建立したお寺だった。

「中川氏御年譜」より。中川久清の娘の夏姫の菩提寺が鎌倉の東渓院である。越中富山藩主の前田正甫の正室。富山の薬売りの発端を作った人。

 今年9月に、大分県竹田市では「竹田キリシタン南蛮文化ウイーク」という催しがあって、「未知の巡礼地 Bungo Taqueta Qutami(豊後 竹田 朽網)」を世界に発信していた。憧れの竹田に行って、鎌倉の東渓院の歴史を紹介することができた。キリシタン文化の再評価が町の誇りになり、町の魅力を深めている。竹田市は風通しの良い町なのだ。羨ましく思った。
 
 その竹田市の南蛮文化振興室長である後藤さんから、中川久清の母が鎌倉を訪問している、とメールがあった。東渓院のできる前らしい。そしていつも重要な示唆を与えてくれる友達の夢草さんが、その母は伊香保記を残した女流文学者である、と教えてくれた。
 ここで、中川久清の母、中川久盛の妻、松平定勝と奥平たつの娘、徳川家康の姪、光顕院、久松萬姫の旅を語りたい。
 
 + + +
 
 インターネットで伊香保記を見ることができる。
 宮内庁書陵部の資料で、筆文字の伊香保記が全頁写真になって公開されている。でも古文書を読むには修練が必要で、私が読むことができたのは、表紙と裏表紙に書きつけてある注釈だけだった。それでも重要なことが読み取れる。
 参照:伊香保記
 
 裏書には豊後国の岡城主中川久盛の夫人が宝暦16年(1639年)に上州伊香保温泉に湯治に行った紀行文であると書かれていた。松平定勝の娘であるとも書かれている。徳川家康の異父弟の娘。その名は江戸時代では絶大な力を発揮しただろうと思われる後書きである。
 文化4年(1807年)と文政3年(1820年)の書き写しである。本は書写で広まったので、貴重品だったのだ。
 この文化文政年間は、神奈川県藤沢市にある江ノ島が大きく観光地化した時代だ。
 この時代の遺物が江ノ島には沢山ある。『キリシタンの巡礼地としての江ノ島を、再発見した』のがこの時代だと、私は思っている。たとえばローマ十字のついた手水鉢が江ノ島にあって、それは1690年、元禄3年のものだ。東渓院ができて10年目の頃の「手水鉢」だ。それを守るように、文化文政期の、経済力のある江戸庶民がたくさんの灯籠や記念碑、鳥居を寄進して江ノ島を飾っている。彼等は伊香保記を書写して読んで、何を発見したのだろうか。
 
  伊香保記の表紙の裏には不思議なことが書かれていた。
 全文を載せて見る。
 
 ///////////////
 中川殿ノ奥方ノ紀行也
 其頃 故アリテ 御離婚ナサレシトキ
 床ニ 菊ヲイケテ 短冊ニ 一首ノ歌ヲ
 ノコシヲ○シ○ナリ
 歌
 身ノホトヲ シラテ ワカルル
 宿ナカラ 跡ハ栄ヘヨ  千代ノ シラキク
 
 後又御帰縁アリ
 ///////////////
 
 萬姫は久盛公と離婚して、床の間に歌を残して去ったというのだ。
 「私の軽率な行為で去ることになりました」とでも言うような歌を。
 「家を出て仮の宿に居る私だけど、床の間に残してきた白菊、
 あの永遠の白菊、この後も栄えますようにと願っています。」
 
 そして、その後に久盛公と復縁したと書いてある。
 
 私の高校の校章が白菊だったなあと思い出す。
 円覚寺に花クルスを背負ったお地蔵さんの墓碑があって、
 そのあたりに白菊旅館があったことを思い出す。
 歌舞伎で、江ノ島の稚児ケ淵に身を投げた少年は白菊丸だった。とも思う。
 菊はクリサンチーム。キリストを表す名を持っている。
 
 この不思議な文が伊香保記の初めに挿入されている。
  離婚した姫が傷心の伊香保旅行をして、その後に復縁したと思わせる文章だ。
 この伊香保記が書かれた経緯を記している風に読める。
 伊香保温泉は子宝の湯で、女性客が多かったのだそうだ。
 そういう知識があれば、姫がどうしても伊香保に行くと言い張った、江戸時代の「お世継ぎ大事」な風潮で読むこともできる。
 そんな前書きだ。
 この文は萬姫が書いた文章ではない。後の人が伊香保記に書き加えた解説だ。と思った。
 これを書く必要があったのだろうか。もちろん、必要があったのだ。
 本文も読んでみたくなった。
 
 宮内庁資料の伊香保記は流暢な筆文字で、とても私には読めない。
 そこで活字になっている伊香保記を探した。
「日本の古本屋」というサイトがあって、今買うことができる古本を、ここで探すことができる。そこに「群馬県史料集」の中に伊香保記が入っていることを知った。昭和46年に群馬県文化事業振興会か出した本だった。
 
 伊香保記は伊香保温泉の江戸初期の様子が分かる資料として貴重なのだそうだ。
 早速読んでみると、この前書きが載っていない。なんと!
 本人が書いたものではないので、伊香保記の中に入れられなかったのだろうか。
 それとも他の本には書かれていなかったのだろうか。
 
 「前書きがある伊香保記」であったから、宮内庁に残っていた、と考えて見た。
 お公家さんの家に残っていたのは「菊の歌」の書かれた希少本だった、としてみる。
「お公家さん」は「江戸幕府」から距離を置いた人たちだったとすると、ここに徳川家に対して秘密にされた何かがある、と想像された。
 「徳川将軍に隠れて、江戸ではこんな本が読まれていますよ。クスクス。」
 そんな密やかな話題性のある希少本だった、と、想像してみた。
 
 奥方が離縁してまで行った伊香保。
 何か事故があった時に、中川家に咎めが無いように、離縁して行ったのだ。
 あれは松平定勝の娘、家康の姪がしでかした事、と、事態が軽く収まるように。
 
 昔から、夫が建前上強硬路線を取って、妻が落しどころを探る、そういうスタイルがあった。
 妻は母や叔母に変わっても、要するに女達が裏方で事態を解決する道を探っているのだ。
 源頼朝は殺されるはずだったけど、池禅尼の嘆願で生きることが出来た。
 大坂城で豊臣秀頼と淀殿が城とともに死なずにすむように、京極初は開城を勧めていた。
 江戸大殉教を実行した徳川家光に、忠誠を誓っている岡城主中川久盛と、離縁して単独行動に出た奥方。
 
 キリシタンを残酷に弾圧した竹中重義は寛永11年1634年に切腹になった。
 竹中重義の府内城(大分県大分市)を預かったのが中川久盛だった。
 彼はそこでキリシタン遺物を発見したのだろう。あるいは元からそれを探していた、と想像する。
 十字架とHOSPITAL SANTIAGO 1612(サンチャゴ慈善病院)という銘文が鋳出された長崎教会の鐘を、誰かが岡藩へ運んだ。それはどう見てもキリシタンの鐘だ。巨大な鐘を運ぶ事ができるのは岡藩主の久盛公しかいないのではないか。
 その鐘は20世紀の第二次大戦の時も供出されず、守り続けられて、今は竹田市の宝になっている。国指定の文化遺産だ。
 中川久盛はキリシタン遺物を隠し持つという危険な決断をしたのだ。
 では、肝の太い夫の奥方は、伊香保行で何をしたのだろう。
 
 伊香保記の中に前田利常の定宿に泊まったと言う記述があった。参勤交代の時に利用する宿泊施設だ。本陣のような、みんなで使う旅館ではなく、加賀前田家のプライベートな宿である。
 ところでこの年、1639年の6月に前田利常は隠居をしていた。
 おそらくこの頃に、娘の富姫が八条宮智忠親王に輿入れする話が決まったのだろうと思う。結婚は三年後だ。
 親王の母は京極常子、京極ジョアン高知の娘である。
 さて。
 二代将軍徳川秀忠は、娘の和子を後水尾院の中宮にしていた。同じく娘の珠姫は前田利常の正室である。二人の敵に娘を送って、懐柔策をとったのだ。
 幕府に批判的な後水尾院と、家康に「この男だけは殺しておかなければ」と言わしめた前田利常、なのだそうだ。
 徳川将軍の姉妹を妻に持った夫同士だ。仲の良い姉妹であったなら、夫達も事情が通じ合う仲になった、かもしれない。
 
 徳川秀忠は娘の結婚で、敵同士を結びつけたかもしれない。そんな時に、八条宮智忠親王に、前田利常の娘が嫁ぐ。養父は後水尾院である。
 互いの娘と養子の結婚。いっそうの結びつきが出来るのだから、幕府から見れば脅威だっただろう。そんな時には隠居して、私はもう無関係だと手を引くのが懸命だ。前田利常の隠居が6月。中川まん姫が前田家の宿に泊まったのが秋。前田家と中川家。江戸から離れた埼玉県鴻巣市で、出会う必要があったのだろうか。
 
 群馬県鴻巣市の中山道から少し離れたあたりに、加賀前田家の梅鉢紋のあるお寺があるそうだ。慈雲山医王院法要寺である。「慶安の頃(1648-1652)、駅の宿所であった勝願寺に、前田公が騎乗のまま入山したので宿泊を断られた。そこで近くの法要寺を宿所として、後に莫大な寄進をして梅鉢紋の使用を許可した。」とある。前田公は皆が宿舎として使う勝願寺ではなく、プライベートな宿が必要だったのだ。
 さて、伊香保記は慶安より前の事だ。この時にすでに前田家の専用の宿があったのだ。そう伊香保記に書いてある。法要寺の伝承に違うのは何故なのだろう。
 「慶安の頃」という記述が間違いで、萬姫が泊まったのは法要寺なのだろうか。それとも前田家の宿舎は時代ごとに場所を変えていたのだろうか。
 中山道の宿場町には点々とキリシタン遺跡がある。キリシタン遺物が宿場町に残っているらしい。それは「加賀前田家の参勤交代で、家臣のお侍が置いて行ったものだ」と伝わっていたりする。前田家専用の宿が必要だったのは、キリシタンの家臣を守る為だったかもしれない。
 
 加賀前田家の宿があると書かれたのは鴻巣と熊谷の間だ。
 そこには忍城がある。中山道の北2.5kmにあって、今は水城公園になっている。
 前田家専用の宿とは、忍城だった、なんてことは、無いだろうなあ。
 この伊香保記の年1639年に、忍城の城主は松平信綱から阿部忠秋に代わっている。松平信綱とは、家光の家老として有名な「知恵伊豆」である。父親は伊奈忠次支配下の代官だったそうだ。埼玉県にキリシタンの遺物が点々とあるのは、伊奈忠次が帰農した元キリシタン侍を雇用して、河川の改修や地域開発をしたからなのだそうだ。多少の事には目をつぶって、彼等の生活を支えた。弾圧するのではなく、人材を大切にする、そういう政策を見て育った息子だと思う。
 この年の1月に川越藩に移封が決まったので、お引っ越しで大騒ぎの春だっただろう。代わりに来たのが阿部忠秋。彼も同じく家光の家老だ。「知恵伊豆」と比べられて「石仏の忠秋さま」と言うのだそうだ。江戸を目前にした中山道を睨む忍城は、家老級の重臣に任せられていたのだ。
 
 知恵伊豆、松平信綱が川越藩に栄転になったのは、島原の乱の功績によると思われる。
 前年、1638年の2月27日、天草四郎の原城は落ちた。その総大将が松平信綱だった。
 私はこんな想像をしたのだ。萬姫が松平信綱にお願いをしている情景だ。
 
 『わたくしの親族の若輩者が、不名誉にも原城に籠っていたようなのです。反乱軍に居たなどと知られたくないのです。なので彼の遺品を返していただきたい。この手で地に埋めて、安心したいのです。』
『遺品とおっしゃられても、天草四郎が率いた原城ですから、くるす(十字架)やこんたつ(ロザリオ)ばかりですよ。それをあなたは欲しがるのですか。あなたもキリシタンなんですか。』
 『ですから他人の目に触れる前に、自分で埋めてしまいたいのです。』
 そんな話が事前にあって、それを受け取りに忍城に行ったのかと想像してみた。御禁制の遺品だから、夫と離縁して来たのだ。もちろんそれは中川久盛公の指示だ。サンチャゴの鐘を隠し持った豊後岡城主の指示だ。でもこの妄想は全くの間違いだった。
 
 先日、竹田市教育委員会が出した「中川氏御年譜」を読むことが出来た。得難いチャンスだ。そこに島原の乱を鎮圧する為に、中川久盛が率先して働いた事が書かれていた。総大将の松平信綱が現地に入る前に、すでに岡藩の軍勢が戦っていたのだ。くるすだってこんたつだって、取り放題だったはずだ。もし敵に親族が居たのなら、逃亡を勧める手だてもあっただろうと思う。
 そもそも。幕府軍は初めから苦戦続きだったそうだ。島原の乱の鎮圧に、早い時期に参戦した人達は、キリシタンに親しかった一族だ。率先して戦う事で、将軍家に忠誠を誓う姿勢を見せたのだろう。そして。「突撃!」で、原城の近くまで行き、適当な所で「撤退!」する時に、持っていた武器弾薬と食料を、ぜんぶ置いて逃げる。天草四郎の軍勢が戦い続けられるように。そういう「戦い」をしたのではないか。戦闘が長引くように「戦った」のではないかと想像してみた。もちろんその間に、講和の道を探していただろう。
 
 伊香保記の書かれた年の6月にペトロ岐部が殺されている。大分県の国東半島に父ロマーノ岐部の一族の地、岐部がある。母マリアは宇佐八幡宮の神官の一族だった。彼は有馬のセミナリヨで学び、地球を半周してローマに行き、神父になった。バチカンから派遣された沢山のバテレン達は、日本人を決して神父にはしなかった。それに反発したペトロは直接バチカンまで行き、神父になることができた。ラテン語でミサをする日本人の神父。キリシタンにとって大切な人であっただろう。帰国して、すでに9年間も日本で活動していた彼の死は、あっという間に日本中のキリシタンに伝えられただろうと思う。
 キリスト教禁教令は徹底して来て、日本各地で膨大な死者を出し、棄教するしか道は無くなった頃、ペトロ岐部が殉教する。その時代の空気を想像してみた。
 なぜ中川久盛の奥方は伊香保へ向ったのか。それはまだ分らないままだ。
 離婚して傷心の萬姫は、子宝の湯に入りたかっただけかもしれない。
 
 参照:伊香保記が引用されてるブログ 楽土漫遊
 
  

 リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」地湧社  60ページで600円です。メールしていただければ郵送いたします。

      


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  ***亀子***
( 9 Nov. 2014)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
:::206.庚申様はすばる星(すばる星1):::
:::207.六所神社のすばる星(すばる星2):::
215.権五郎神社と彦星
216.扇湖山荘と星
217.その八重垣をギャラクシーという
218.逗子市沼間の地上の北斗
219.星宿橋と梅田川の北斗
220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
221.東慶寺の景観とすばる星
222.大船の南斗六星と星ガ谷
223.長岡京の彦星線

224.二宮町の出雲八重垣
225.六人の勇士 池子の蛇退治1

226.石楯尾神社の星

227.阿蘇内牧温泉の星
228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮
229.カガセオの星
230.摩多羅神の居る鎌倉
231.深沢の星景色
232.鎌倉の熊野神社
233.猪鹿狼寺の秘密
234.泣塔が見ていた星
235.霜月祭のヘンバイと星
237.京都下鴨神社の星
......池子王の戦い 池子の蛇退治2


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