鎌倉、まぼろしの風景。252 

鎌倉、まぼろしの風景。


Kamakura,a land of illusions
          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。

Kamakura,a land of illusions    

北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴

206.庚申様はすばる星(すばる星1)

207.六所神社のすばる星(すばる星2)

208.キリシタンと庚申様(すばる星3)

209.鎌倉キリシタンの伝承 1

210.東渓院の領地

211.大坂城の遺児
鎌倉キリシタンの伝承 2

212.手広村の大岡様
鎌倉キリシタンの伝承 3

213.田代寺安養院
鎌倉キリシタンの伝承 4

214.水戸光圀の鎌倉案内
鎌倉キリシタンの伝承 5

220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
鎌倉キリシタンの伝承 6

236.山崎の女領主相高院
鎌倉キリシタンの伝承 7

238.豊後国岡城主中川久盛室、久松萬姫の「伊香保記」

249.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩1崇法院琴姫様と山崎の谷戸

250.北鎌倉明月院洞窟と竹田市の三日月岩

251.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩2山崎にまつわる家康公の姫君たち

252.萬姫のお散歩漫歩3「消えた村」善行寺村の謎


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ)
*** ***

   

「織姫星と鎌倉」銀の鈴社で通信販売中です。Kindle版「織姫星と鎌倉」もどうぞ。
リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」の続きです。読んでいただけたら幸いです。

カジュアートスペースのカジュ祭に参加します。「織姫星と鎌倉」と「星月夜の鎌倉と塔の辻」を販売します。
5月2日(土)2015年。「星になるオモダカ」を差し上げます。ぜひご覧になって下さい。

キリシタンと江戸文化

252.萬姫のお散歩漫歩 その3
「消えた村」善行寺村の謎

 久松松平定勝の娘、萬*1でございます。徳川家康公と我が父は、於だいの方様を母君として兄弟にございます。静岡県の掛川で生まれ育った私は豊後竹田の岡城主2代目の中川久盛様*2に嫁ぎました。その殿も亡くなって今は尼となり光顕院と申します。
 21世紀にお暮らしの皆様に江戸時代の鎌倉をご案内いたしましょう。なので私はすでに亡者でございます。今の私の姿は61才くらいに見えるでしょうか。息子の中川久清殿*3と一緒に鎌倉を見物した、ちょうどその頃の姿でございます。

「消えた村」善行寺村の謎  

 続きでございます。
249.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩1崇法院琴姫様と山崎の谷戸
251.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩2山崎にまつわる家康公の姫君たち

 「当代をかたぶけ奉り(家光を排斥して)。駿河殿(徳川忠長)を天下の主に仰がんとする。」
 そのような恐ろしい陰謀が本当にあったのでしょうか。*4
 二代将軍秀忠様と崇源院浅井江(ごう)様のお子様は、千姫様を筆頭にご長男の家光様、ご次男の忠長(ただなが)様*5と、2男5女を得られました。気難しい家光様よりも、忠長様へのご寵愛が際立っていたそうです。お母様の叔父に当たる織田信長様に、忠長様は姿もお話のご様子もよく似ていたと聞いております。
 早くから、次期将軍は忠長様にと、甲府や相模、駿河の家臣団は期待しておりました。そこで家光様の乳母である春日局様が家康公に訴えられた。兄である家光様をないがしろにすれば争いの元、次期将軍は家光様とお決めください、と迫ったそうです。
 家康公の一声でこの問題は解決したように見えたのです。

 ところが。秀忠様が亡くなって家光様が将軍におなりになった1623年元和9年に、家光様の命令で江戸の大殉教が起こります。江戸のキリシタンが芝の札の辻で火あぶりになりました。
 前年は元和の殉教です。55人が長崎の西坂で処刑されました。秀忠様が行ったこのキリシタン弾圧ではキリシタンと名乗る人々が殺されました。女や子供も多く含まれていました。棄教しなかった人達が覚悟の上で亡くなったのです。でも家光様の江戸大殉教は違いました。キリシタンを匿った人達も殺されたのです。南無阿弥陀仏と言えばいつでも許されるという時代は終わったのです。キリシタンに便宜を図ったという疑いだけで仏教徒も殺される時代になったのでした。
 江戸の人達は敏感に反応しました。江戸から逃げ出すキリシタンに宿を貸す人は居なくなりました。*6昨日まで一緒に暮らしていた人々の穏やかな風景が、憎み合う関係になったのです。
 江戸はパニックになりました。
 江戸には地方から集まって来た、たくさんのキリシタンが住んでいました。それぞれの武家屋敷の出入りの商人として、保護されて暮らしていた人達もいました。それは皆、武士を続けることができなくなった人達です。菓子屋なら長崎から来る砂糖の取引で、マニラやルソンの教会の情報が入りました。酒屋は赤酒を作って修道会のミサに提供しました。煎餅店は聖餅を焼きます。神社の神官やお寺の住職はそれと分かる記号を境内に置いて、キリシタンの人たちにも祈りの場を提供していました。心の内は語ること無く、共存する上手な生き方が弾圧の中で生まれていたのです。それが崩壊しました。匿ったり取引をしたりすれば、一緒に殺される時代が来たのでした。

 大猷院御実紀の元和9年の10月13日*7の項に、江戸大殉教の記事がございます。その後に一つ置いて19日の項。青山忠俊様*8の蟄居の記述が続いています。家光様の勘気を被ったとあります。

 キリシタンを狩り出して女や子供まで残酷に殺す、それを江戸の人々に見せる。それで人々の崇敬が得られるはずはございません。おそらく青山様は厳しい口調で将軍家光様を叱責されたのでしょう。青山様が20年後の1643年寛永20年4月15日に数え年66才で亡くなられたことが、ここにまとめて書かれています。
 青山様は家光公の一番近いところでお仕えした方でした。厳しい言動で家光公を叱ることのできた方が、江戸大殉教の後に、すべてを捨てて相州今泉に隠居なさった。そのお気持ちが分かる人が、この御実紀を書いているのでしょう。
 「当代をかたぶけ奉り(家光を排斥して)。駿河殿(徳川忠長)を天下の主に仰がんとする。」
 その動きは、1623年、元和9年から始まったのだと想像いたします。そしてそれは駿河大納言忠長様のご自害で、1634年1月、寛永10年の12月に、突然に消えてしまったのでした。

 神奈川県藤沢市善行に善行寺村の伝承が残っています。将軍家光様を殺めようとした事件が発覚し、善行寺は破壊されました。そして村の名前が消えたのです。ここに伝わる物語を、ご紹介いたします。*9

 佐竹の何某(なにがし)*10が減封になり、お国替えをする中で、武士をやめて農民になったご家中の方々がいました。佐竹一族の中に、藤沢山清浄光寺(遊行寺)に入って僧侶になることで生き抜いた方*11がいました。その方でしょうか、その後の上人でしょうか。*12家光公が藤沢の御殿にお泊りになる時に、藤沢山から大筒で狙って、恨みを晴らそうとしたそうです。それは世迷い言に過ぎません。でも、確実に何かが、普光上人の頃から計画があったのでしょう。それが発覚して、遊行寺は処罰*13を受けます。

 遊行寺は遊行上人を罰することをはばかって、一番位の低い衆常軒の僧侶を切腹に追い込むことで、事態を収めたのです。惨いことでございます。その刑場跡にはお堂が立てられて、亡くなった方を弔い続けているそうです。小高い岡にあった善行寺は、おそらく遊行寺を守るために罪を被り、破却されたのでしょう。恐ろしい計画は小さな末寺の僧坊で謀られていたと、事件を矮小化したのです。さらに事件そのものも、もみ消してしまいます。そしてお寺の名前がついていた地名まで、無くなったのでした。
 今、善行神社に行けば、善行寺村と彫られた石塔を見ることができます。善行寺村は存在していたという、これが唯一の物証なのです。

 江戸の人気の歌舞伎演目に幡随院長兵衛(ばんずいいちょうべえ)があります。江戸浅草花川戸の口入れ屋(職業斡旋所)の塚本伊太郎は町奴と呼ばれる無頼集団のリーダーで、旗本奴の水野成之に殺されます。この後にたくさん現れる庶民のヒーロー、ク客、の元祖が、幡随院長兵衛なのだそうです。
 幡随院とは江戸神田にあった幡随意上人のお寺です。徳川家康の命を受けて、幡随意上人が九州へ旅立ったのは慶長18年1613年のこと。上人は71才でした。そこでキリシタンの頭目を説諭して、多くのキリシタンを改宗させました。幡随意上人の名は国中に広まりました。その「幡随意上人諸国行化伝」*14の「巻1、幡随意上人誕生奇瑞ノ事」に、上人の生まれた場所が書かれています。
「相模国藤沢ノ郷善行寺村ノ人」
 ここに善行寺村の名が残っていたのです。

 江戸の人々は幡随院長兵衛を語る時には、幡随意上人の事も語ったでしょう。そして消えた村、善行寺村について、囁きあった事でしょう。もちろん将軍家光公への謀反も、噂になったでしょう。公文書のどこにも見えない「善行寺村」は「幡随意上人諸国行化伝」の中に生きていたのです。

 江戸時代の人々はあらゆる手段を使って、幕府の批判をしました。浮世絵は諷刺画になり、狂歌や俳句が流行します。幕府公認の歌舞伎の中にも、沢山の隠喩がありました。キリシタンは当時の最も重い罪人でした。でもそれは殺人者でも放火魔でもない人々です。そして見つかれば、女や子供まで殺されたのです。それを黙って江戸時代の人達は見ていました。その恐怖を、分からぬように語り合っていたのです。
 歌舞伎の演目とは、当時このようなものであったのです。

 江戸の公文書には善行寺村という名前はございません。新編相模国風土記稿にも載っていません。でもここに住む人たちは善行寺の名前を忘れずにいて、大正の時代に善行という地名が復活します。幕府が丹念に消して行った事件は、20世紀にまで伝えられ蘇ったのです。
 人々の心に残った事件は、施政者が消そうとしても消えないのです。伝承とは歴史そのものではございませんか。
 幕府によって消された「家光暗殺未遂事件」は今に伝えられて、消えた村「善行寺村」の事を知ることができます。
「家光暗殺未遂事件」など無かったとおっしゃいますか?ではなぜ善行寺村の名前は消えたのでしょう。なぜこんなにも完璧に、消えているのでしょう。ここに大きな事件があった、それを「証拠が無い」ことが証明しているのです。

 今回は北鎌倉から7kmほど離れた藤沢市善行のお散歩コースをご紹介いたします。
 次回は再び崇法院様の山崎へ、語り尽くせぬ鎌倉の山崎へ、戻ります。

*1光顕院松平萬 1602-1689 「伊香保記」1639 の著者。
*2中川久盛 豊後竹田岡城主二代目。肥後熊本二代目の加藤忠広が改易になった時に熊本城を預かった。
*3中川久清 豊後竹田岡城主三代目。北鎌倉に明治の頃まであった東渓院を娘の菩提寺として建立する。
*4徳川実紀 大猷院殿御実記 寛永九年四月 15日の項。近代デジタルライブラリー 国史大系第十巻 1905年版 127コマ目
*5テ川忠長 駿河大納言 1606-1634 寛永9年1632年改易。翌年幽閉先の高崎城にて自害した。28才。
*6「みちのくキリシタン」只野淳著 昭和53年 158頁
*7現在の新暦では1623年12月4日。徳川実紀 大猷院殿御実記 元和九年十月 13日の項。 近代デジタルライブラリー 国史大系第十巻 1902-1905年版 11コマ目
*8青山忠俊(あおやまただとし)1578-1643 江戸幕府老中、大老。武蔵国岩槻藩主、5万5000石。元和9年1623年10月19日老中を免職。上総大多喜藩2万石に減封。寛永2年1625年除封。蟄居。
*9「ぜんぎょうを知ろう!ふるさと再発見 〜善行の古道を歩いて名跡を訪ねる〜」平成26年3月発行 ぜんぎょうを知ろう!ふるさと再発見編集委員会 善行市民センター(上記地図の善行図書館)
YouTube動画 藤沢市広報課の作った動画で、善行寺跡地、善行神社、幡随意上人生誕の地、を見ることが出来ます。
*10佐竹義宣 1570-1633 慶長7年1602年徳川家康によって常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へ減封。水戸城から久保田城主へ。寛永10年1633年江戸神田で死去。63才。
*11遊行32代藤沢13世 普光上人 1543-1626 常陸国主太田佐竹氏一族小野岡佐竹義高二男。天正19年1591年佐竹義宣に招かれ水戸藤沢道場を開く。藤沢の遊行寺が戦火で衰退して復興できないまま、水戸が時宗の本山の藤沢山と呼ばれ栄えた。慶長12年1607年藤沢の清浄光寺が再興し、藤沢に移る。寛永3年1626年死去。83才。加藤光正の事件の前に亡くなっている。白金業書「遊行・藤沢歴代上人史〜時宗七百年史〜」1989年
*12遊行33代満悟上人 1537-1606 越後直江氏(米沢城主兼続一族)。豊臣秀吉が帰依。豊臣秀頼が建立した豊国寺(法国寺)の開山。慶長5年1600年石田三成、小西行長らが京都六条河原で斬られた時十念を授ける。
 遊行34代藤沢14世灯外上人 1561-1644
遊行35代法爾上人 1563-1640 相州小田原佐伯氏。32代普光上人の会下頭(えかかしら:師のもとで修行する僧の代表)。将軍家光のころの上人。
 普光上人とその後の上人は、家光排斥を計画した?諸国を遊行する上人はネットワークを作ることができる。人々をまとめる力になる。加藤光正の事件発覚当時の遊行上人とすると法爾上人になる?

*13遊行寺が処罰を受けた記録は無い。ただ、佐竹義宣が水戸の神生平(かのうだいら)に建立した水戸藤沢道場は、寛永10年1633年に神応寺と改名している。この時期に藤沢の遊行寺と関係する寺院だと知らせたくない、そんな事件があったから改名したのだと推測してみた。
*14「幡随意上人諸国行化伝」1755年 埼玉県図書館デジタルライブラリー



アプリ「なぞる距離」にSkitchで作図

出立:小田急江の島線善行駅西口下車
南へ坂道を上ると藤沢市善行市民センターに着く。
   善行図書館で「ぜんぎょうを知ろう!ふるさと再発見 〜善行の古道を歩いて名跡を訪ねる〜」を読むことができるかもしれない。
西に向い善行公園に着く。善行寺跡と言われる場所。
公園を過ぎたら北上して、階段を下りる。
ガスト藤沢善行店の前を通って善行神社入口交差点を北へ。
善行神社で石塔を見る。
ガストの前に戻り、東へ善行郵便局入口交差点を南へ。
幡随意上人生誕の地。個人宅なので見学には事前に藤沢市に申し込みをする必要がある。
帰着:南に下ると善行駅に着く。

   善行駅から善行公園、善行神社に立ち寄って善行駅まで約1.3km。

   国土地理院1万分の1地形図「藤沢」を使用。

 リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」地湧社  60頁 600円。
 私家版「織姫星と鎌倉」銀の鈴社 272頁 2000円。
 メールしていただければ郵送いたします。

      


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  ***亀子***
( 21 Apr. 2015)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

:::::目次:::::

:::Top最新のページ:::

・・・地図上の直線
地図に線を引くとわかる設計
(ランドデザイン)

・・・地上の星座
天体の運行を取り入れた景観

:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::

3.霊仙山20Apr:::

:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::

6.道の意匠:::

:::7.修験道の現在形:::

:::8.鎌倉の白い岩:::

:::9.セキサンガヤツ:::

10.若宮大路のカレンダー:::

11.神奈川県の鷹取山:::

12.鎌倉の正三角形:::

:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::

:::15.夜光る山:::

:::16.下りてくる旅人:::

:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::

:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::

21.熊野神社の謎:::
22.熊野神社+しし石:::

23.北鎌倉の地上の昴:::

24.ふるさとの北斗七星:::

25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
:::206.庚申様はすばる星(すばる星1):::
:::207.六所神社のすばる星(すばる星2):::
215.権五郎神社と彦星
216.扇湖山荘と星
217.その八重垣をギャラクシーという
218.逗子市沼間の地上の北斗
219.星宿橋と梅田川の北斗
220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
221.東慶寺の景観とすばる星
222.大船の南斗六星と星ガ谷
223.長岡京の彦星線

224.二宮町の出雲八重垣
225.六人の勇士 池子の蛇退治1

226.石楯尾神社の星

227.阿蘇内牧温泉の星
228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮
229.カガセオの星
230.摩多羅神の居る鎌倉
231.深沢の星景色
232.鎌倉の熊野神社
233.猪鹿狼寺の秘密
234.泣塔が見ていた星
235.霜月祭のヘンバイと星
237.京都下鴨神社の星
239.スカイ島の立石と銀河 The Storr&MilkyWay
Scotland&Cygnus/1

240.オークニー島の世界遺産と天の川 Heart of Neolithic Orkney&Cygnus
Scotland&Cygnus/2

241.緑の洞門(北鎌倉駅のトンネル)とその稜線について
242.緑の洞門と北鎌倉の星の景観
243.「道の先」と円覚寺、東慶寺、浄智寺の星景色

244.藤原の宮の御井の歌

245.見開かれた眼
246.高市皇子の星空 藤原宮御井歌2
247.天文現象の事実と記載された歴史の差 藤原宮御井歌3

248.天武天皇とすばる星 藤原宮御井歌4
......池子王の戦い 池子の蛇退治2


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