北鎌倉の石仏
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:::Top 最新の目次に戻る::: +亡備録 私的用語集+
○大淀三千風の日本行脚文集○
+++キリシタンと江戸文化
+110.東渓院菊姫 北鎌倉と豊後竹田+
+111.キリシタンの二十三夜★
+112.東慶寺の姫+
+113.徳川直轄地の キリシタン+
+114.キリシタン受難像+
+115.江戸の幽霊 お岩とお菊+
+116.江戸の狂歌師 酔亀亭天広丸+
+117.江戸の蕎麦とお菓子+
+118.禁止された教え+
+119.葛飾北斎の1834年 旅する江戸人1+
+120.近松門左衛門の1719年 旅する江戸人2+
+121.大淀三千風の1686年 旅する江戸人3+
+122.大淀三千風の鴫立庵+
+123.柴又帝釈天の1779年 旅する江戸人4+
+124.飯島崎の六角の井+
+125.古狸塚+ +126.六地蔵・芭蕉の辻と 潮墳碑+
+127.キリシタン洞窟礼拝堂+ +128.十字架の菜の花+
+129.黙阿弥の白波五人男+
+130.大山の木食上人 旅する江戸人5+
+133.「忠直乱行」を読む 旅する江戸人6+
+135.駿河大納言忠長の遺業 旅する江戸人7+
+136.松平忠長の侍達 旅する江戸人8+
+137.許六と芭蕉+
+138.忠直とサンチャゴの鐘 豊後竹田と北鎌倉+
+139.沖の花(大分 瓜生島伝説)+
+140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図+
+141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿+
+142.鎌倉の庚申塔3・猿の面+
+143.曾根崎心中の道行き+
+144.義経千本桜の幻惑+
+145.建長寺のジョアン+
+147.椿地蔵と手まり歌+
+148.鎌倉という名の火祭り+
+149.玉藻ノ前と殺生石+ +151.不屈の第六天社(藤沢)+ +152.第六天の女神(戸塚)+ +153.玉縄城の第六天(鎌倉)+
+154.お花畑と後北条氏+
+155.落柿舎と鎌倉地蔵+ +157.平塚の4手の庚申塔+ +162.十文字鳥居と手水鉢 (藤沢市江ノ島)+ +163.八橋検校の秘曲と「千鳥」+
+164.半僧坊と明治憲法+
+165.夜空にかかる十字架 (明月院の谷)+
+169.馬頭観音の天衣(1)+
+170.マリアの石碑(2)+
+171.マリアの影を石に刻む(3)+ +172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)+ +173.化粧するお地蔵様+ +180.大淀三千風のすみれと芭蕉+ +181.謡坂と善智鳥 (うとうざかとウトウ)+ +182.善知鳥と江戸大殉教+ +183.芭蕉の見た闇 (名古屋市・星崎)+ +186.キリシタンの古今伝授+ +187.鎌倉仏教とマニ教+ +188.謎の桜紋+ +189.西行と九尾の狐+ +190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)+ +191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)+ +
193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)+ +
194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)+ +
195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)+ +
196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)+ +
197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)+ +
199.扁額にある記号(書かれた文字4)+ +
200.こゆるぎの松 (1鎌倉の小動)+
+201.城山公園の石碑 (2大磯の小動)+
+202.小ゆるぎの里 (3寒川の小動)+
+203.謡曲「隅田川」と田代城主+ +204.イボとり地蔵の小石+
+205.港町の杯状穴+
+206.庚申様はすばる星(すばる星1)+
+207.六所神社のすばる星(すばる星2)+
+208.キリシタンと庚申様(すばる星3)+ +
209.鎌倉キリシタンの伝承 1+ +
210.東渓院の領地+ +
211.大坂城の遺児 鎌倉キリシタンの伝承 2+ +
212.手広村の大岡様 鎌倉キリシタンの伝承 3+
213.田代寺安養院 鎌倉キリシタンの伝承 4+ +
214.水戸光圀の鎌倉案内 鎌倉キリシタンの伝承 5+ +
220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗 鎌倉キリシタンの伝承 6+
236.山崎の女領主相高院 鎌倉キリシタンの伝承 7+
238.豊後国岡城主中川久盛室、久松萬姫の「伊香保記」 +
249.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩1崇法院琴姫様と山崎の谷戸 +
江戸文化に キリシタンの影響を見る。見ず 聞かず 言はざる までは つなげども 思はざる こそ つながれもせず(心に思う事を 罰する事はできない) 諸国里人談 巻三一「三猿堂」 菊岡沾凉(米山)著1743年刊
写真集 私説:キリシタン遺物と その影響下に作られたと思われる 石碑と石仏
亀の蔵 「鎌倉、まぼろしの風景」 の要約。 書かなかったことや 後から書き足す事ども。
知る者は言わず 言う者は知らず《老子》
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亀子 Twitter:@ninayzorro ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ) ***
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「織姫星と鎌倉」銀の鈴社で通信販売中です。 Kindle版「織姫星と鎌倉」ができました。 「今すぐ無料サンプルを送信」を押すと、冒頭部分が試し読みできます。 リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」の続きです。読んでいただけたら幸いです。 銀の鈴社ギャラリーで「織姫星と鎌倉 原画展」を開きました。 2月5日(木)〜10日(火)2015年。たくさんのご来場をありがとうございました。 +キリシタンと江戸文化+ + 249.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩1 崇法院琴姫様と山崎の谷戸 遠江掛川城主久松松平定勝の娘、萬*1でございます。徳川家康公と我が父は、於だいの方を母とします兄弟でございます。静岡県の掛川で生まれ育った私が豊後竹田の岡城主2代目の中川久盛様に嫁ぎましたのは6才の時でした。その殿も亡くなって今は尼となり光顕院と申します。 21世紀にお暮らしの皆様に、これから江戸時代の鎌倉をご案内いたします。なので私はすでに亡霊になっているはずなのですが、残念ながら、自分が息を引き取ったと言う覚えがございません。数え年88歳までは覚えているのですけれども。 息子の中川久清殿と一緒に鎌倉を見物したのは61才の頃、今の私はちょうどその頃の姿をしているようです。
崇法院琴姫様と山崎の谷戸
名将加藤清正公の豊後熊本、2代目の加藤忠広公の時代でございます。加藤家が突然に改易になったのは寛永9年1632年のことでした。徳川3代将軍の家光様を暗殺しようとなさった。その計画に参加した数名の名前が連判状に書かれて、その書状が見つかったというのです。それが本当なら忠広様は斬首の上で獄門に掛けられたでしょう。でも出羽庄内(山形県鶴岡市)に配流になり、酒井忠勝様お預けになられて1万石をいただいて、重臣達50人を引き連れて出羽丸岡に蟄居なさった。ご母堂正応院様もご一緒に、静かなお暮らしをなさっているのです。改易後のお暮らしが、このように恵まれている例はあまりございません。なので、あの連判状は偽物だったと言われています。家光様を亡き者にするなどと言う企みは、無かったのだ、と。
寛永9年4月10日のことです。 普請奉行の室賀源七郎正俊殿のお屋敷に、宛名も差出人も書かれていない文書が届いたそうです。そのような文は受け取れぬと突き返されたところ、文箱は隣家に投げ捨てられたとか。お隣の井上新左衛門殿が開いて読みましたところ。 老中の土井利勝様を首謀者として3代将軍家光様の日光参廟を機に、挙兵に踏み切る、とあったそうです。この年は東照宮徳川家康様の17回忌でありました。 文箱を投げ捨てていった侍は、すぐに捕まって白状致しました。それが前田五郎八某、加藤忠広様のご嫡男の、光広様のご家中であったそうです。
光広様はまだ18才になられたばかり。ほんの悪戯心で偽書を作ったと言われています。光広様は光正とお名前を変えられて、飛騨高山(岐阜県高山市)の金森重頼様にお預けとなりました。わずかに月俸百口では御供を連れて行く事も出来かねます。翌年にはお病気で亡くなられたそうです。自刃されたのであろうか、毒殺されたのではなどと、恐ろしい噂もございました。 わずか1年お暮らしになった天性寺*2は、松平忠輝*3様が8年間蟄居なされた寺院でもあり、それはそれで御名誉なことでございます。
お母様の崇法院琴姫様*4は忠広様の出羽庄内にも光広様の飛騨高山にも行かずに、相州鎌倉の山崎に住まわれました。相高院と法名も変えられて、静かなお暮らしぶりだったそうです。 あの連判状は広光様が書いたもので、それは崇法院様が書かせたものだと言う恐ろしい噂がありました。側室にお心が移って、御国に早くお帰りになる忠広様を引き止める為だったとか。それが本当であるはずはございません。
ところで3代将軍家光様の側室の自証院様は蒲生家の家老であった岡重政殿の孫。山崎に蟄居なされた崇法院琴姫様は蒲生秀行様のお娘子でいらっしゃいます。そんなご関係から、きっと将軍様へ自証院様のお口添えがあって、江戸に近い鎌倉の山崎の静かなお暮らしを得られたのだと思います。岡重政殿を切腹に追い込んだのは、琴姫様のお母様の振姫様です。その娘を自証院様が庇うはずは無いとお考えですか?それは違うと思います。
崇法院琴姫様は若くして亡くなられた御子の加藤光広様の菩提を弔い、夫の加藤忠広様の御安泰をお祈りする日々を送られたのです。けれどもお二人は改易になった方々ですから、表向きはお母様の正清院振姫様のお弔い、ということにして、山崎に蟄居なさったのでしょう。その場所がどこであるかは、残念ながら存じ上げません。鎌倉中央公園の洞窟があった谷戸なのか、魯山人の窯跡として著明になった山崎小学校の谷戸なのか、はて。 ところで、鎌倉の山崎には諏訪山昌清院(しょうせいいん)というお寺がございます。諏訪社がお庭の池の向こう側にありますので、諏訪山と言うのでしょう。 円覚寺の末院でございます。あるいは正清院と書いた時代があったのか、さて。 諏訪忠恕(すわ ただみち)公の奥方の清昌院様とは関係はないようですが、さて。「正」も「昌」も「しょう」、また「清」も「正」も「せい」と読みますので、紛らわしいことでございます。
正清院様は東照宮徳川家康公の三女、振姫さまでございますが、陸奥会津の蒲生秀行様に嫁がれて、忠郷様と伊予松山の蒲生忠知*5様の母堂となられました。 その後の岡重政殿が切腹になった、あの蒲生騒動の後に家康公のご意向で離縁させられ、安芸広島の浅野長晟様に嫁がれて、浅野光晟様を産んだのちに37才で亡くなられました。元和3年1617年のことでございます。夫君浅野長晟様が亡くなったのが、これも寛永9年1632年ですから、偶然とは不思議なもの。父を亡くした浅野光晟様と翌年にお子を亡くした崇法院琴姫様は正清院振姫様を母に持つご兄弟同士。昔語りをして心許す事もあったのかもしれません。 そして戯れで作られた謀反の連判状の偽書などというものが本当にあったのでしょうか。後の人々は加藤忠広様が豊臣家に親しかったという理由と、駿河大納言徳川忠長*6様と非常に親密であったという事を挙げて加藤家の廃絶を謀ったのだと噂しました。 ともあれ崇法院(相高院)琴姫様は鎌倉で19年間も過ごされて生涯を全うされたのです。
浅野家の文書に「久岳君御伝記」がございます。ここに崇法院琴姫様が相高院と名を変えて載っているそうです。
「慶安4年辛卯3月18日 相高院(徳川秀忠の養女じつは蒲生秀行の娘、肥後熊本城主加藤肥後守忠広室、浅野光晟異父姉、加藤家断絶後は相模国鎌倉の内山崎村に住居)逝去す。」*7
肥後熊本の加藤家の改易が鎌倉の山崎に及んで、その事が広島藩浅野家の「済美録」に載っているとは。世の中は狭いものでございます。
山崎は谷戸深い静かな隠里です。そこに崇法院琴姫様は19年間住まわれて亡くなりました。それは徳川3代将軍家光が亡くなるよりもひと月ほど早い春のことでした。 父方の祖父は蒲生レオン氏郷公、祖母は織田信長公の娘の冬姫。母方の祖父は徳川家康公。 ご自身は2代将軍徳川秀忠公の養女というお立場で、これはなんともお寂しい晩年だったと思われるでしょうか。 水が流れ、山の青い、山崎の谷戸にいらしてごらんなさい。 ここで暮らした19年の平穏が何より崇法院琴姫様のお心を慰めたのだと、そうお感じになられるはず。深い谷戸の奥へ、さまよい入ってごらんなさいませ。今はもう幻のお屋敷跡を求めて。山崎は今年も美しく春を迎えております。
*1 1602(慶長7年)ー1689(元禄2年) 1639(寛永16年)の「伊香保記」の著者。1663寛文3年61才の時に鎌倉見物。 *2 天照寺(旧天性寺)。法華寺(高山市)で検索。ワシモのホームページより。 *3 1618(元和4年)に徳川家康の6男の越後高田藩主松平忠輝が高山に配流になる。元和2年に兄の2代将軍秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪。その後に飛騨高山、信濃諏訪と移り92才で諏訪高島城にて永眠。改易の理由は様々に語られるが、キリシタンに親しかったのが最大の要因だと思われる。妻は伊達政宗の娘の五郎八姫(いろはひめ)で、政宗の妻の愛姫(めごひめ)とともに熱心なキリシタンだった。大久保長安に親しかったとも。 *4 臨済宗円覚寺派三聖山寒光寺のホームページより。開基の相光院琴姫とあるので、Wikipediaにある依姫ではなくここでは琴姫と呼ぶことにする。 *5 1634(寛永11年12月6日)に京都の藩邸で急死。享年30。伊代松山城内に「まな板石」があり「残忍な」忠知の伝承を伝えている。鎌倉市扇ガ谷の薬王寺に妻(松寿院)と娘(梅嶺院)の墓があり、嫡男鶴松の墓もあったという。 *6 徳川家光の弟。寛永9年に改易、翌年(1633年)幽閉先の高崎城にて自害。享年28。正室の織田昌子(松孝院)は忠長の乳母の朝倉清(昌清院)を開基として、昌清寺(東京都文京区本郷)を建立し弔う。鎌倉市扇ガ谷の薬王寺に松孝院の建立した慰霊塔がある。 *7 ホームページ赤穂義士史料館より。快く引用を許可して下さったことに感謝申し上げます。
参照:135.駿河大納言忠長の遺業旅する江戸人7 参照:141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿 参照:
194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷) 参照:
236.山崎の女領主相高院 鎌倉キリシタンの伝承 7 参照:47.将軍のいましめ(5)井関隆子
出立:JR東海道線(または横須賀線、京浜東北線)大船駅下車。 湘南モノレール乗車。 富士見町駅下車、南へ800m。 レーベンスガルテン山崎を過ぎて。 ライオンズガーデンテラス山崎の大椿の三叉路を南西へ。 赤い稲荷のある道を左折。川に沿って鎌倉中央公園まで。 中央公園北部を散策。その後、稲荷まで戻る。 西へ山崎集会所まで行き、左折して昌清院(非公開)へ。 戻って山崎集会所から椿の三叉路へ。東へ向う。 十文字のある山崎の庚申塔。 南東へ川に沿って山崎小学校へ。 魯山人窯跡は小学校の南。 山崎小学校を右手に臥竜洞切通し跡を通って神明神社へ。 富士見町駅からここまでの行程3km。 帰着:神明神社から北東へ県道から北鎌倉駅や大船駅へ。 神明神社から北西に湘南モノレール富士見町駅へ。 国土地理院1万分の1地形図「大船」を利用。
+ リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」地湧社 60頁 600円。 私家版「織姫星と鎌倉」銀の鈴社 272頁 2000円。 メールしていただければ郵送いたします。 *
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***亀子*** ( 18-23 Mar. 2015)
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| 十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)
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:::Top最新のページ::: ▲・・・地図上の直線 地図に線を引くとわかる設計 (ランドデザイン) ★・・・地上の星座 天体の運行を取り入れた景観
:::1.天平の星の井19Apr:::
:::2.虚空蔵菩薩堂:::
▲3.霊仙山20Apr:::
:::4.飛竜の都市:::
:::5.分水嶺:::
▲6.道の意匠:::
:::7.修験道の現在形:::
:::8.鎌倉の白い岩:::
:::9.セキサンガヤツ:::
★10.若宮大路のカレンダー:::
▲11.神奈川県の鷹取山:::
▲12.鎌倉の正三角形:::
:::13.鎌倉の名の由来:::
:::14.今泉という玄武:::
:::15.夜光る山:::
:::16.下りてくる旅人:::
:::17.円覚寺瑞鹿山の端:::
:::18.鎌倉の獅子(1):::
:::19.望夫石(2):::
:::20.大姫の戦い(3):::
▲21.熊野神社の謎:::
▲22.熊野神社+しし石:::
▲23.北鎌倉の地上の昴:::
★24.ふるさとの北斗七星:::
★25.労働条件と破軍星:::
★26.北条屋敷跡の南斗六星:::
:::27.星と鎌と騎馬民 :::
★28.江の島から見る北斗と昴 :::
★29.由比ケ浜から見る冬の星 :::
:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::
▲31.御嶽神社の謎:::
★32.塔の辻の伝説(1) :::
★33.昇竜の都市鎌倉(2):::
★34.改竄された星の地図(3):::
★35.すばる遠望(小休)(4):::
▲36.長谷観音レイライン:::
★37.星座早見盤と金沢文庫:::
▲38.鎌倉の墓所と鎮魂:::
▲39.ふるさとは出雲:::
▲40.義経の弔い:::
▲41.「塔の辻」の続き:::
▲42.子の神社:::
:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::
:::48.ふたつあることについて:::
:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::
:::50.たたり石:::
:::51.鎌倉の十三塚:::
★52.陰陽師のお仕事:::
▲53.坂東平氏の大三角形と星:::
▲54.大船でみつけた平将門:::
▲55.神津島と真鶴:::
▲56.鷹取山のタカ (八王子市と鎌倉市):::
▲57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
▲58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::
:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::
▲60.重なり合う四神:::
:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::
:::63.吾妻社:::
▲64.約束の地(小休):::
★65.若宮大路の傾き(星の都1):::
★66.國常立尊(星の都2):::
★67.台の天文台(星の都3):::
▲68.鎌倉の摩多羅神:::
★69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
★70.鎌倉と姫路(星の道2):::
★71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::
★72.環状列石のしくみ (五芒星1)::: ★73.環状列石の使い方 (五芒星2)::: ★74.関谷の縄文とスバル (五芒星3):::
▲75.十二所神社のウサギ:::
:::76.針摺橋:::
▲77.平安時代のジオラマ:::
▲78.獅子巌の四神 (藤原氏の鎌倉):::
▲79.亀石によせる:::
▲80.山頂の古墳:::
:::81.長尾道路の碑 (横浜市戸塚区):::
★82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
★83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
★84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
★85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
★86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::
:::87.実方塚の謎(1) 鎌倉郡小坂郷上倉田村:::
:::88.戸塚町の謎(2) 鎌倉郡小坂郷戸塚町:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4) 栃木県宇都宮市雀宮町:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5) 茨城県古河市:::
:::92.北鎌倉の悲劇:::
▲:::93.こぶた山と奈良東大寺:::
:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::
▲96.海軍さん通りの夕日:::
▲★97.今泉不動の謎:::
▲98.野七里:::
▲99.染谷時忠の屋敷跡:::
★100.三ツ星とは何か (またはアキラについて):::
:::48.ふたつあることについて:::
▲101.亀の子山と磐座、火山島:::
★102.秦河勝の鎌倉:::
▲103.由比若宮(元八幡):::
▲104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
▲105.北鎌倉 台の光通信:::
★106.鎌倉の占星台:::
★107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
▲150.鎌倉 五芒星都市::: ▲158.第六天社と安部清明碑::: ▲159.桜山の朱雀(逗子市)::: ★160.双子の二子山と寒川神社::: :::161.ゴエモンの木::: :::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉::: :::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発)::: ★167.地上の銀河と星の王1(平塚市)::: ★
168.地上に降りた星の王2 (鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)::: ★
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る)::: :::
175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説)::: ★
176.おんめさまとカガセオ::: ★
177.南西214度の縄文風景 2 (大湯環状列石とカナイライン):::
★
178.御霊神社と鎌倉 (南西214度の縄文風景3):::
★
179.源頼朝の段葛とカガセオ (南西214度の縄文風景4):::
:::
184.鎌倉の小倉百人一首:::
:::
185.鎌倉の小倉百人一首 2:::
:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
:::206.庚申様はすばる星(すばる星1):::
:::207.六所神社のすばる星(すばる星2)::: +
215.権五郎神社と彦星+ +
216.扇湖山荘と星+ +
217.その八重垣をギャラクシーという+ +
218.逗子市沼間の地上の北斗+ +
219.星宿橋と梅田川の北斗+ +
220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗+ +
221.東慶寺の景観とすばる星+ +
222.大船の南斗六星と星ガ谷+ ++
223.長岡京の彦星線+
++
224.二宮町の出雲八重垣+
225.六人の勇士 池子の蛇退治1+ + 226.石楯尾神社の星+ +
227.阿蘇内牧温泉の星+ 228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮+ 229.カガセオの星+ 230.摩多羅神の居る鎌倉+ 231.深沢の星景色+ 232.鎌倉の熊野神社+ 233.猪鹿狼寺の秘密+ 234.泣塔が見ていた星+ 235.霜月祭のヘンバイと星+ 237.京都下鴨神社の星+ 239.スカイ島の立石と銀河 The Storr&MilkyWay Scotland&Cygnus/1+ 240.オークニー島の世界遺産と天の川 Heart of Neolithic Orkney&Cygnus Scotland&Cygnus/2+ 241.緑の洞門(北鎌倉駅のトンネル)とその稜線について+ 242.緑の洞門と北鎌倉の星の景観+ 243.「道の先」と円覚寺、東慶寺、浄智寺の星景色+
244.藤原の宮の御井の歌+ + 245.見開かれた眼+ 246.高市皇子の星空 藤原宮御井歌2+ 247.天文現象の事実と記載された歴史の差 藤原宮御井歌3+
248.天武天皇とすばる星 藤原宮御井歌4+ ......池子王の戦い 池子の蛇退治2+
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