鎌倉、まぼろしの風景。283 

鎌倉、まぼろしの風景。


Kamakura,a land of illusions
          
     

イメージの翼に乗って「星月夜の鎌倉」を妄想するページ。

星座早見盤と地形図を持って、鎌倉の地上の星座を探検中です。

Kamakura,a land of illusions    

北鎌倉の石仏

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亡備録 私的用語集
大淀三千風の日本行脚文集


+++キリシタンと江戸文化

110.東渓院菊姫
北鎌倉と豊後竹田

111.キリシタンの二十三夜

112.東慶寺の姫

113.徳川直轄地の
キリシタン

114.キリシタン受難像

115.江戸の幽霊
お岩とお菊

116.江戸の狂歌師
酔亀亭天広丸

117.江戸の蕎麦とお菓子

118.禁止された教え

119.葛飾北斎の1834年
旅する江戸人1

120.近松門左衛門の1719年
旅する江戸人2

121.大淀三千風の1686年
旅する江戸人3

122.大淀三千風の鴫立庵
123.柴又帝釈天の1779年
旅する江戸人4

124.飯島崎の六角の井

125.古狸塚

126.六地蔵・芭蕉の辻と
潮墳碑

127.キリシタン洞窟礼拝堂

128.十字架の菜の花

129.黙阿弥の白波五人男

130.大山の木食上人
旅する江戸人5

133.「忠直乱行」を読む
旅する江戸人6

135.駿河大納言忠長の遺業
旅する江戸人7

136.松平忠長の侍達
旅する江戸人8

137.許六と芭蕉

138.忠直とサンチャゴの鐘
豊後竹田と北鎌倉

139.沖の花(大分 瓜生島伝説)

140.鎌倉の庚申塔1・キリスト磔刑図
141.鎌倉の庚申塔2・嘆きの猿
142.鎌倉の庚申塔3・猿の面

143.曾根崎心中の道行き

144.義経千本桜の幻惑

145.建長寺のジョアン

147.椿地蔵と手まり歌

148.鎌倉という名の火祭り

149.玉藻ノ前と殺生石

151.不屈の第六天社(藤沢)
152.第六天の女神(戸塚)
153.玉縄城の第六天(鎌倉)

154.お花畑と後北条氏

155.落柿舎と鎌倉地蔵

157.平塚の4手の庚申塔

162.十文字鳥居と手水鉢
(藤沢市江ノ島)

163.八橋検校の秘曲と「千鳥」

164.半僧坊と明治憲法

165.夜空にかかる十字架
(明月院の谷)

169.馬頭観音の天衣(1)
170.マリアの石碑(2)
171.マリアの影を石に刻む(3)

172.六地蔵、葎塚(むぐらづか)と芭蕉(山梨県)

173.化粧するお地蔵様

180.大淀三千風のすみれと芭蕉

181.謡坂と善智鳥
(うとうざかとウトウ)

182.善知鳥と江戸大殉教

183.芭蕉の見た闇
(名古屋市・星崎)

186.キリシタンの古今伝授

187.鎌倉仏教とマニ教

188.謎の桜紋

189.西行と九尾の狐

190.○と□ (丸と四角、マリアとイエス)

191.踊場の猫供養塔(横浜市泉区)

193.貞宗院様の遺言(貞宗寺:鎌倉市植木)

194.崇高院様の山門(成福寺:鎌倉市小袋谷)

195.鎌倉光明寺54世松誉上人(書かれた文字1)

196.涌井藤四郎の新潟湊騒動(書かれた文字2)

197.鎌倉大仏縁起・(書かれた文字3)

199.扁額にある記号(書かれた文字4)

200.こゆるぎの松
(1鎌倉の小動)

201.城山公園の石碑
(2大磯の小動)

202.小ゆるぎの里
(3寒川の小動)

203.謡曲「隅田川」と田代城主

204.イボとり地蔵の小石

205.港町の杯状穴

206.庚申様はすばる星(すばる星1)

207.六所神社のすばる星(すばる星2)

208.キリシタンと庚申様(すばる星3)

209.鎌倉キリシタンの伝承 1

210.東渓院の領地

211.大坂城の遺児
鎌倉キリシタンの伝承 2

212.手広村の大岡様
鎌倉キリシタンの伝承 3

213.田代寺安養院
鎌倉キリシタンの伝承 4

214.水戸光圀の鎌倉案内
鎌倉キリシタンの伝承 5

220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
鎌倉キリシタンの伝承 6

236.山崎の女領主相高院
鎌倉キリシタンの伝承 7

238.豊後国岡城主中川久盛室、久松萬姫の「伊香保記」

249.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩1崇法院琴姫様と山崎の谷戸

250.北鎌倉明月院洞窟と竹田市の三日月岩

251.萬姫の北鎌倉お散歩漫歩2山崎にまつわる家康公の姫君たち

252.萬姫のお散歩漫歩3「消えた村」善行寺村の謎

253.萬姫のお散歩漫歩4 葡萄の蒔絵と北鎌倉の琴姫様

260.夏目漱石のキリシタン1

261.「吾輩は猫である」とキリシタン

268.豊後竹田岡城主、中川久清公の浄因寺 (静岡県沼津市三津)

269.光顕院の御湯治と小坂薬師
(静岡県伊豆の国市小坂)

277.山崎の女領主を追いかけて10年目のまとめ

282.大船地区の神社の位置(鎌倉)


283.幸徳事件を鎌倉郡戸塚町で思う(横浜市戸塚区)


 


江戸文化に
キリシタンの影響を見る。

見ず 聞かず
言はざる までは
つなげども
思はざる こそ
つながれもせず

(心に思う事を
罰する事はできない)

諸国里人談 巻三一「三猿堂」
菊岡沾凉(米山)著1743年刊



写真集
私説:キリシタン遺物と
その影響下に作られたと思われる
石碑と石仏


亀の蔵

「鎌倉、まぼろしの風景」
の要約。

書かなかったことや
後から書き足す事ども。


知る者は言わず
言う者は知らず《老子》

資料集

きっかけ

はじめに

メール* 亀子

Twitter:@ninayzorro

ブログ:鎌倉、まぼろしの風景(ブログ休止中)
*** ***

   

私家版「織姫星と鎌倉」、リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」をぜひご覧下さい。鎌倉駅前蔵書室で読むことが出来ます。

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283.幸徳事件を鎌倉郡戸塚町で思う(横浜市戸塚区)


 平成横浜病院は神奈川県横浜市戸塚区戸塚町の小高い丘の上にある。その庭にある石碑を見に行った。 塔身部の高さ320cm、幅107cmの巨大な石碑は明治45年1月5日という文字を刻んでいた。
 正面に大きく「恩化大行衆庶楽政」と彫ってある。「神奈川県知事の周布公平が大事業を成し遂げたので人々は謹んで讃えます」という感謝の石碑である。「鎌倉郡民一同」とある。この碑を#1恩化の碑(M45)と言おう。



恩化の石碑

 こんな立派な石碑の建設費用はいくらだろうと下世話な想像をした。碑の裏に建碑発起人の六十数名の名が連なる。発起人は町や村の代表者だろうから、それぞれの住民が少しづつ出し合ったのかも知れない。
 ここに書かれた鎌倉郡とは、柏尾川流域を主として今の鎌倉市全域、横浜市戸塚区、泉区、栄区の全域、瀬谷区のほとんど、港南区、金沢区、南区の一部、そして藤沢市の村岡、片瀬、江の島を含んでいた。郡役所は戸塚の吉田町。後に戸塚町。だからこの地域の人々の誇りは高かったのだ。鎌倉郡の中心がここだったのだ。
 こんなに広域の人々から感謝された県知事さん。どんな事業をやり遂げたというのだろう。

 そこで図書館で戸塚の記念碑を調べた。「横浜市文化財調査報告書22−1戸塚区石造物調査報告書(一)」に載っていた。

 病院の庭にはもう一つ石碑があったらしい。こちらには「澤如時雨」と大書してある。やはり明治45年で5月とある。
 「耕地整理と柏尾川改修の偉業を成し遂げた鎌倉郡長の原田千之助を謹んで表象する」と読めた。
 建てた人達は「愛甲郡厚木町南毛利村人民総代、鎌倉郡戸塚町豊田村本郷村長尾村人民総代」。
 この碑を#2澤如の碑(M45)と言おう。

 文化財報告書にはこれに続いて、関連すると思われる、更に二つの記念碑が載っていた。JR戸塚駅の朝日橋近くに、再整備されて桜の古木とともに碑は並んでいるらしい。
 大正14年春の「豊塚堰(とつかせき)」の碑と昭和8年4月の「拈華(ねんげ)」と彫られた碑である。

 #3富塚堰碑(T14)は、「明治38年に戸塚町、豊田村、長尾村、本郷村の耕地整理と柏尾川の改修をした。しかし大正12年9月1日の関東大震災のために大破。ちょうど鉄道改良工事として川身の付け替えをしていた鉄道省の助力を得て柏尾川の改修ができた。豊塚堰と命名する。」というもの。「神奈川県鎌倉郡戸塚町ほか二ヶ村、耕地整理委員長 小串清一」の名前がある。

 #4拈華碑(S8)について。「拈華(ねんげ)」とは禅宗の言葉である拈華微笑(ねんげみしょう)から、らしい。碑の題字撰文は建長寺管長だ。その意味は。
 『インドの霊鷲山でお釈迦様が黙って華をひねった。人々はその意味を理解しなかったが、一番弟子の大迦葉(だいかしょう)だけが理解して、微笑んだ。悟りは文字や説明で伝わるものではない、という不立文字を示したお話。』
 こんな仏教用語を掲げた碑文を要約すると。
 「戸塚町、豊田村、長尾村、本郷村は柏尾川の氾濫に悩んだ。鎌倉郡長の原田千之助と県費補助を受けて耕地整理組合を作り、3年目で4kmの堤防を完成させた。明治41年であった。耕地整理委員長の小串清一の努力が大きく、川岸に桜の木を二千本植えた。その後25年、青年団有志の保護により桜並木は関東屈指の名所となった。記念のため本碑を建て役員の芳名を録しその功績を追憶す。」
 裏面に委員長小串清一以下、役員の名が多数記されている。

 これら四つの碑文を総合し、有名な柏尾川と明治天皇の話を合わせると、こうなる。

 明治34年(1901)明治天皇が横須賀へ向う途中、車中から柏尾川の水害の惨状を見て、「どうにかならんのか」と嘆かれた。同行していた神奈川県知事の周布公平が柏尾川の改修を指示した。明治38年になって鎌倉郡長の原田千之助が指揮を取り、耕地整理組合を作って組合長小串清一が河川整備をした。工事は明治41年に竣工しそれから25年後の昭和8年まで、桜の育成に務めた。
 その間に、明治45年、周布公平が県知事を退官する1月に#1恩化碑が建立され彼を讃えた。また同年5月に#2澤如碑ができて原田千之助を讃えた。
 関東大震災の後に再び改修されて、震災の2年後に小串清一の名で#3豊塚堰碑が建立された。昭和8年に建長寺管長の題字撰文で#4拈華碑が建てられた。

 ここまでが、碑文に書かれた歴史、事実である。
 でも石碑を見れば、それ以外の何かが伝わって来るものだ。
 碑文に書けない事だって歴史には有るからだ。
 そもそも巨大な碑を建てようと思った動機は、水害ではない、のかもしれない。
 ここからは想像力で語ってみる。妄想でもある。

  ★★★   

 #1恩化碑を見て、気になる所が4つあった。
 碑文の一番上の文字、「明治四十有五年」この明の字の日が目になっている。すごく目立つ。年号と天皇の名を間違えるだろうか。
 ところがこれは正しい字だと言う。篆刻と書家の先生が教えてくださった。でも、それは学のある方々の知る所で、私たち一般民は、ドッキリするんじゃないかなあ。
 二つ目。
 文末の「鎌倉郡民一同叩恭」。中国の礼の仕方に三跪九叩頭というのがあって、三回ひざまづいて九回頭を地面に叩きつける、という。
 手紙などの文章の末に「恭叩」と書くそうだ。深く頭をたれる、という意味だろう。でも、叩恭では逆になってるなあ。
 三つ目。
 正面に大きく「恩化大行衆庶楽政」とある。恩化とはめぐみ、大行は大事業の事だそうだ。調べると大行天皇という言葉があった。天皇が亡くなってまだ諡号が付かない時に使う呼び名だそうだ。恩化大行天皇なら、恵み深い先の天皇という意味だろうか。この年の7月30日に明治天皇は亡くなっている。
 だから、ひょっとして、7月以降にこの碑はできた、かもしれない。
 明治天皇の下では言えないこともある、かもしれない。昭和から平成になった時に、昭和天皇が亡くなって、それで初めて語り出した人の証言を、聞いたことがある。
 そして県知事が退官した1月12日より一週間前の、1月5日と彫って建立したかもしれない。「神奈川県知事正三位勲一等男爵周布公平閣下」と彫る為には現職であった日付が必要だったのだろう。
 それから、大行天皇という単語を連想させる、その「天皇」が入る位置に「衆庶」と入れる。
 この対比は鮮やかだ。
 四つ目。
 柏尾川の改修を指示した県知事を讃えるなら、工事が終わった明治41年に建てても良い。なぜ45年なんだろう。
 明治の歴史を学んでみた。明治43年6月に幸徳事件、いわゆる大逆事件があった。
 翌年1月18日に死刑判決が出たのは24人。明治天皇が恩赦を出して、12人が死を免れた。
 1月24日と25日に処刑されたのは12人。そのうち罪にあたる者は4人だとウィキペディアにあった。思想弾圧として、活動家を有罪にでっち上げた、らしい。
 #1恩化碑はその翌年、45年の建立である。

 「明治43年。5月25日に多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まった。」とウィキペディアに書いてあった。社会主義者、無政府主義者だけが捕まったのだろうか。

 <寺の演説会が面白そうだって、聞きに行った者は大勢いるよ。>
 <あの塾の先生は捕まるのかね。塾生は無関係なんだよ。>
 <青年団は大丈夫かい。疑われたら大変だ。>
 これはもう思想の問題じゃなくて、息子や娘を庇う親たちの願いだ。
 <鎌倉郡の青年たちは無関係だ。逮捕しないでくれ。>

 刑死した12人の内に森近運平がいた。
 明治40年に大阪平民新聞を作る。明治42年、幸徳秋水らと対立し岡山県に帰郷。
 地元の農業改良運動に従事。明治43年幸徳事件で逮捕。
 「地元の農民は無実を信じ、佐藤範雄に助命を依頼。佐藤は岡山県知事と岡山県警察部長と共に上京して嘆願助命をした。」とウィキペディアにある。
 彼は助からなかった。けれど、県知事が働いて、助かった人がいたのではないか。

 神奈川県知事の周布公平は何をしただろう。
 鎌倉郡長の原田千之助はどう動いただろう。
 二人の働きで、逮捕を免れた人が、いたのではないか。 だからこんなに沢山の人たちが、こんな大きな碑を建てて感謝したのではないか。
 <「あの男」が捕まれば、その友人も逮捕される。俺の息子に疑が掛からぬように。>
 <「あの男」は無関係だ。幸徳秋水の一派ではないんだ。そう、主張してください。>
 これは私の想像した情景だけれど。その男は誰だろう。

 幸徳事件の2年前、明治41年に赤旗事件があった。14名が逮捕された。
 そのうち神川松子と管野スガ(27才)の2名は無罪となり釈放された。

 堺利彦(37才)禁錮2年。山川均(28才)禁錮2年。
 大杉栄(23才)禁錮2年6ヶ月。荒畑寒村(21才)禁錮1年6ヶ月。

 彼らは幸徳事件の時に獄中にいて、逮捕を免れたと言われている。
 でも。
 明治43年1月。管野スガを含めた4人が千駄ヶ谷の平民社で凶行の計画をたてた(幸徳事件)。 その翌月に荒畑寒村は出所していた。彼だけは他の3人とは状況が違うのだ。
 荒畑寒村の妻であった管野スガは、獄中の夫に離縁状を送って幸徳秋水(38才)と暮らしていた。出所した荒畑は幸徳を殺そうと思い、二人の旅行先に行ったが会えなかった。
 それから荒畑は、彼らと疎遠になった。幸徳事件に連座しなかった理由の一つであるらしい。

 荒畑寒村が幸徳事件で逮捕され有罪になるのなら、堺利彦、山川均、大杉栄も、有罪になっていただろうと想像した。獄中にいても有罪にできるのなら、社会主義者として有名な彼らを検察は逃さないだろう。
 逆に、荒畑寒村を幸徳事件に無関係としたなら、他の3人は、なおさら無関係だ。
 荒畑寒村は逮捕されなかった。その事実は他の3人の命も救っていたのだろう。

 横浜市港南区野庭(のば)町に、荒畑寒村 里親の家 があった。
 荒畑寒村は横浜市南区永楽町で生まれ、5才まで野庭町で育った。後に実家に帰った彼は、野庭の家を懐かしんだという。彼の故郷である。
 明治22年に町村制が施行されて、永谷村と上野庭村、下野庭村は合併して永野村になった。その名が#1恩化碑 にもある。「豊田村 小串清一」の名の次に見える。

 この幸徳事件を生き延びた大杉栄は、関東大震災の混乱の中で謀殺された。震災の2年後に小串清一の名で建立された#3豊塚堰碑には、関東大震災の文字がある。
 そして、文字で説明するのではなく心で受け止めよと、拈華と掲げた#4拈華碑は昭和8年。幸徳事件で12人が刑死した明治43年の23回忌になる。

 4つの石碑は柏尾川改修の歴史を語る碑である。
 でも、同時代を生きた人はこの碑から読み取る事があると思うのだ。
 県知事と郡長をそれぞれに讃え、関東大震災を書き込んだ小串清一さんが、この四つの碑の建立を企てたのだと想像した。これは彼の事業なのだ。
 すると、驚くことが見つかった。
 私たちは10年も前に、彼が書いた碑を見つけて感銘していたのだった。
 それは長尾道路の碑 である。碑には小串廉斎という名があった。彼は石碑の中で七十八才になっていた。
 子雀浄水場を背に碑文を読んだ私たちは、碑文に書かれていない感動を受け止めた。
 このように碑文は読むものであると学んだ。
 「鎌倉、まぼろしの風景 81.長尾道路の碑(横浜市戸塚区)」にそれを書いた。
 長尾道路の碑の全文はこちらにあった。
 戸塚の記念碑

  ★★★

 幸徳事件で死刑になった内山愚童の事を書けなかった。
 神奈川県厚木市で僧侶になり、箱根の寺の住職になった社会主義者である。#2澤如の碑(M45)で、「愛甲郡厚木町南毛利村人民総代」と書かれているのは、彼の事を悼む人たちではなかったかと想像した。
 もちろん、厚木には徳川将軍家の炭焼御用の山があった。香りの良い炭は桜の木で作る。明治になって放置された山に、桜の若木はたくさんあっただろう。柏尾川の二千本の桜はここから来たのかもしれないと、想像した。
 碑文の正面に「沢は時雨のようだ」と書いた。
 内山愚童を悼み、人々の涙が止まらなかったのだろう。

 小串清一さんは衆議院議員になり、参議院議員になった。社会主義者ではなく、後の自民党につながる自由党の人だった。
 神奈川県立図書館に「評伝 小串清一」白川秀次著 があった。鎌倉図書館に頼んで、借りることができた。読むのが楽しみだ。
 あなたが建てた石碑を見て、106年後の今頃になって微笑む私がいる。
 あなたがひねった花を、受けとめたよと伝えたい。
 


 
 

 リーフレット「星月夜の鎌倉と塔の辻」地湧社  60頁 600円。
 私家版「織姫星と鎌倉」 272頁 2000円。
 メールしていただければ郵送いたします。

      


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 ***メールは亀子宛へ***
( 8.Sep. 2018)

     

   
十字形手水鉢(神奈川県藤沢市)

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22.熊野神社+しし石:::

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25.労働条件と破軍星:::

26.北条屋敷跡の南斗六星:::

:::27.星と鎌と騎馬民 :::

28.江の島から見る北斗と昴 :::
29.由比ケ浜から見る冬の星 :::

:::30.鎌倉の謎(ひと休み) :::

31.御嶽神社の謎:::

32.塔の辻の伝説(1) :::
33.昇竜の都市鎌倉(2):::
34.改竄された星の地図(3):::
35.すばる遠望(小休)(4):::

36.長谷観音レイライン:::

37.星座早見盤と金沢文庫:::

38.鎌倉の墓所と鎮魂:::

39.ふるさとは出雲:::

40.義経の弔い:::

41.「塔の辻」の続き:::

42.子の神社:::

:::43.松のある鎌倉(1):::
:::44.星座早見盤と七賢人(2):::
:::45.山崎の里(3):::
:::46.おとうさまの谷戸(4):::
:::47.将軍のいましめ(5)井関隆子:::

:::48.ふたつあることについて:::

:::49.万葉集の大船幻影(休憩):::

:::50.たたり石:::

:::51.鎌倉の十三塚:::

52.陰陽師のお仕事:::

53.坂東平氏の大三角形と星:::
54.大船でみつけた平将門:::

55.神津島と真鶴:::

56.鷹取山のタカ
(八王子市と鎌倉市)
:::
57.鷹取山のタカ2(鷹の死):::
58.鷹取山のタカ3(宝積寺):::

:::59.岩瀬、伝説が生まれた所:::

60.重なり合う四神:::

:::61.洲崎神社:::
:::62.語らない鎌倉:::

:::63.吾妻社:::

64.約束の地(小休):::

65.若宮大路の傾き(星の都1):::
66.國常立尊(星の都2):::
67.台の天文台(星の都3):::

68.鎌倉の摩多羅神:::

69.地軸の神(星の道1):::
+++おわびと訂正+++
70.鎌倉と姫路(星の道2):::
71.頼朝以前の鎌倉(星の道3):::

72.環状列石のしくみ
(五芒星1)
:::
73.環状列石の使い方
(五芒星2)
:::
74.関谷の縄文とスバル
(五芒星3)
:::

75.十二所神社のウサギ:::

:::76.針摺橋:::

77.平安時代のジオラマ:::

78.獅子巌の四神
(藤原氏の鎌倉)
:::

79.亀石によせる:::

80.山頂の古墳:::

:::81.長尾道路の碑
(横浜市戸塚区)
:::

82.柏尾川 天平の大船幻想1 :::
83.玉縄 天平の大船幻想2 :::
84.長屋王 天平の大船幻想3 :::
85.万葉集と七夕 天平の大船幻想4 :::
86.玉の輪荘 天平の大船幻想5 :::

:::87.実方塚の謎(1)
鎌倉郡小坂郷上倉田村
:::
:::88.戸塚町の謎(2)
鎌倉郡小坂郷戸塚町
:::
:::89.こぶた山と雀神社(3):::
:::90.雀神社の謎(4)
栃木県宇都宮市雀宮町
:::
:::91.実方紅雀伝説と銅(5)
茨城県古河市
:::

:::92.北鎌倉の悲劇:::

:::93.こぶた山と奈良東大寺:::

:::94.王の鳥ホトトギスとミソサザイ:::
:::95.悪龍と江の島:::

96.海軍さん通りの夕日:::

▲★97.今泉不動の謎:::
98.野七里:::
99.染谷時忠の屋敷跡:::

100.三ツ星とは何か
(またはアキラについて)
:::

:::48.ふたつあることについて:::
101.亀の子山と磐座、火山島:::
102.秦河勝の鎌倉:::
103.由比若宮(元八幡):::
104.北鎌倉八雲神社の山頂開発:::
105.北鎌倉 台の光通信:::
106.鎌倉の占星台:::
107.六壬式盤と星座早見盤:::
:::108.常楽寺 無熱池の伝説:::
:::131.稲荷神社の句碑:::
:::132.鎌倉に来た三千風:::
:::146.幻想の田谷 横浜市栄区田谷:::
150.鎌倉 五芒星都市:::
158.第六天社と安部清明碑:::
159.桜山の朱雀(逗子市):::
160.双子の二子山と寒川神社:::
:::161.ゴエモンの木:::
:::134.ここにあるとは 誰か知るらん:西郷四郎、会津と鎌倉:::
:::166.防空壕と遺跡(洞門山の開発):::

167.地上の銀河と星の王1(平塚市):::
168.地上に降りた星の王2
(鹿嶋神宮、香取神宮、息栖神社)
:::
174.南西214度の縄文風景(金井から星を見る):::

::: 175.おんめさま産女(うぶめ)伝説 (私説):::
176.おんめさまとカガセオ:::

177.南西214度の縄文風景 2
(大湯環状列石とカナイライン)
:::

178.御霊神社と鎌倉
(南西214度の縄文風景3)
:::

179.源頼朝の段葛とカガセオ
(南西214度の縄文風景4)
:::

::: 184.鎌倉の小倉百人一首:::

::: 185.鎌倉の小倉百人一首 2:::

:::156.せいしく橋の伝説:::
:::109.北谷山福泉寺の秘密:::
:::192.洞窟と湧水と天女:::
:::198.厳島神社の幟旗:::
:::206.庚申様はすばる星(すばる星1):::
:::207.六所神社のすばる星(すばる星2):::
215.権五郎神社と彦星
216.扇湖山荘と星
217.その八重垣をギャラクシーという
218.逗子市沼間の地上の北斗
219.星宿橋と梅田川の北斗
220.徳蔵山東渓院と梅田川の北斗
221.東慶寺の景観とすばる星
222.大船の南斗六星と星ガ谷
223.長岡京の彦星線

224.二宮町の出雲八重垣
225.六人の勇士 池子の蛇退治1

226.石楯尾神社の星

227.阿蘇内牧温泉の星
228.阿蘇神社と鶴岡八幡宮
229.カガセオの星
230.摩多羅神の居る鎌倉
231.深沢の星景色
232.鎌倉の熊野神社
233.猪鹿狼寺の秘密
234.泣塔が見ていた星
235.霜月祭のヘンバイと星
237.京都下鴨神社の星
239.スカイ島の立石と銀河 The Storr&MilkyWay
Scotland&Cygnus/1

240.オークニー島の世界遺産と天の川 Heart of Neolithic Orkney&Cygnus
Scotland&Cygnus/2

241.緑の洞門(北鎌倉駅のトンネル)とその稜線について
242.緑の洞門と北鎌倉の星の景観
243.「道の先」と円覚寺、東慶寺、浄智寺の星景色

244.藤原の宮の御井の歌

245.見開かれた眼
246.高市皇子の星空 藤原宮御井歌2
247.天文現象の事実と記載された歴史の差 藤原宮御井歌3

248.天武天皇とすばる星 藤原宮御井歌4
254.越木岩神社とイワクラ

255.永福寺跡の星景色

256.北西312度の白鳥座
257.源頼朝の古式巻狩
258.天の川が地平線を覆う星景色(かさね石)

259.鳥羽三女神の星景色 熊野4

262.北斗七星の滑川

263.深沢の星景色から「鎌倉」を知る

264.鎌倉の太子道 飛鳥と鎌倉

265.米良神楽の星景色と鎌倉神楽

266.遺跡としての風景
島根県安来市の十神山


267.丸亀、斑鳩、橿原、鎌倉。
すばる星の下に


270.衣張山をどこから見るか
(神奈川県鎌倉市)


271.二上山の日没と白鳥座
(双耳峰2)


272.讃岐七富士堤山と飯野山
(双耳峰3)


273.石木の星景色(ご来光と星)

274.安閑神社の神代石(滋賀県高島町)

275.御所原遺跡と二ツ森(岩手県一戸郡)

276.波切神社と鎌倉の星の井(三重県志摩市大王町)

278.W字に流れる川はカシオペア座である(群馬県の鏑川)

279.星の祭り(創作)

280.笠間中央公園遺跡から見る天神山と環状列石

281.蝦夷が祀った神
......池子王の戦い 池子の蛇退治2


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