鎌倉、まぼろしの風景。297

　「神奈川県鎌倉市稲村ガ崎のボート遭難像の青年は多聞天として祀られているように見える。」
　七里ガ浜哀歌1(像)の続きです。

　稲村ガ崎公園は稲村ガ崎の西側にあって江ノ島と富士山を眺める絶景の名所だ。県営駐車場が目の前にある。豊富な砂鉄で真っ黒になった極楽寺川の河口からも、公園に立つボート遭難像を見ることができる。ここに来れば誰だって江ノ島と富士山を眺めるだろう。
　だから誰も疑わなかったのだろう。なぜこの碑がここに立っているのかを。

　でも、一般的に、ここが鎌倉の名所でなかったなら、遭難碑はどこに建てられるだろうと考え直してみる。
　ここはボートが沈んだ場所に近い。そこにボート遭難像ができる。青年像は手を上げている。おーい、ここだよー。
　青年はどこに向かって手を上げるだろう。

　それは帰ることができなかった我が家だ。家族が待つ家だ。亡くなった12人がどこに住んでいたかは知らないけれど、青年像が見る方向は、出発した小坪漁港の方ではないのか。学校のある逗子の方ではないか。つまり東を向いて立つのがこの場合の慰霊碑の一般の姿ではないかと思った。碑にも書かれた真白き富士の根の歌、その2番の歌詞にも「力も尽き果て、呼ぶ名は父母恨みは深し、七里ヶ浜辺」とある。青年像が見つめるのは東、帰るべき家だと思うのだ。

　南に突き出している稲村ガ崎の東側は絶壁で公園のように人々が集まる場所はない。だけどその磯に像が立っていても良かったと思う。はるかに逗子を眺めて、手を上げる青年像は美しかっただろうと思う。あるいは慰霊碑のために小さな公園を新たに作っても良かったかもしれない。
　なぜ慰霊碑は西を向いているのだろう。江ノ島を向いているのだろう。
　ただ景色が良いからではない、と思った。

　青年像が見ている江ノ島の東側、そこに児玉神社があった。今は無い。2021年に売却されて立ち入りができなくなった。
　児玉神社の記憶が江ノ島から消えていくので、今まだグーグルマップで見れるうちに、この物語を書いている。記憶が消えていくと無かった事になってしまうから。

　児玉神社の御祭神は児玉源太郎(1851～1906)だ。海軍大将だった。第4代の台湾総督。1898年から1906年まで、明治政府が中国から奪った台湾で一番の権力を握った人だ。だから境内には台湾から運ばれた狛犬があって、ちょっと異国の風情があった。総督の職を辞して４ヶ月後に脳溢血で亡くなっている。児玉は鎌倉に別宅があって、でもそこにも来客が押し寄せるので、秘密基地を江ノ島に設けた。ここに逃げ込んで心休まる時間を過ごしたその場所が神社になったのだ。江ノ島の漁師たちも彼に親しく接していたらしい。
　江ノ島神社の辺津宮に向かう賑やかな参道から児玉神社に向かうと、急に人通りのない山に入るように思える。でも地図で見れば延命寺の近くから山道が神社に向かっていて、漁師町の料理屋や酒屋からとても近いのだ。児玉はお得意さんだったに違いない。児玉神社の場所は絶好の秘密基地だった。ここから稲村ガ崎が見える。小坪漁港も逗子海岸も見える。ボートが沈んだ時もここからよく見えたのかもしれない。
　児玉神社の創建は1918年(大正7)だ。それ以前に児玉の三回忌(1908年)に合わせて、親友の杉山茂丸が東京向島の自宅に児玉源太郎を祀る社を建てたのだという。その神社が10年後に江ノ島に移されて児玉神社になった。

　杉山茂丸(1864～1935)は寺内正毅内閣総理大臣(1916〜1918)の参謀と呼ばれ、政界の黒幕とも言われた人だそうだ。明治、大正、昭和初期に政界と財界に人脈を持ち台湾に精糖産業を勧め、中国に満鉄の建設を立案したそうだ。作家の夢野久作のお父さんという方が幻想文学好きには通りが良い。ネット上の青空文庫に夢野久作の「父杉山茂丸を語る」が上がっていた。
「父　杉山茂丸を語る」夢野久作　著　青空文庫

　ボート遭難の1910年、台湾総督は第5代佐久間左馬太に変わっていた。この時代に何があったのか調べた。ネット上に1909年(明治42)1月22日の官報号外があった。ボート遭難のちょうど一年前の第25回帝国議会1月21日の衆議院議事を知らせる広報だった。
　議事の第9 に台湾銀行の銀貨を廃する事に関しての議決が載っている。

　この広報を読んで、私の拙い理解力ではこうなる。
　「台湾銀行が発行していた銀行券(台湾で使っていた紙幣)はすでに昨年に廃止されたけれど、日本に支払う税金などは台湾銀行の銀貨でも支払いができた。でも今回、台湾銀貨も廃止されるので、今後は銀貨も使えなくなる。まだ市中に沢山の銀貨が流通しているので、今持っている人は今年中に金貨か紙幣に変えなさい。」

　自分の持っている紙幣が使えなくなったら、どうするのだろう。例えば円は無くなってドルになると言われたら。
　急いで銀行に行ってドルに変えようとしても、今日から1ドルは千円ですと言われたら？財産が半分以下に消えた人もいたのではないか。
　廃された台湾銀貨の値段は台湾総督が決めると書いてある。日本国に有利で台湾で蓄財した人達には不利になったのではないか。すんなり法案が通っているけれど、台湾に住む人々にとってはとんでもない事態だと思った。
　台湾銀貨の交換期限が1909年12月31日。翌1月の23日が遭難の当日だ。

　ボート遭難で亡くなった4人兄弟の父は貿易商だったという。亡くなった12人の一人は日銀総裁の甥だという。海が荒れる予兆の中で漁師は一艘も船を出さなかった日に、海軍から払い下げられた明らかに漁船ではないボートに乗った青年たちの行程は、海岸から見えていた。鎌倉の別荘地からも、江ノ島からも。
　江ノ島で軽食をとって、多分彼らはいつものように酒も飲んでいただろう。一人が江ノ島から陸路で帰る事になって、帰りのボート乗船は12人になった。ここに誰か大人が関与していたとしたら。少年たちに酒を進めた誰かが居たとしたら。
　それは私の妄想だと思っていた。別の児玉神社を知るまでは。

　児玉神社を検索すると児玉明神が出てきた。愛媛県宇和島市にある和霊神社のことだそうだ。児玉と書いて「みこたま」と読む。みこたまさんという祭事が愛媛県新居浜市の浦渡神社にもある。こちらは夏越祭のことで茅の輪くぐりもある。みこたまさんは地域の人々に愛された神さまなのだ。
　和霊神社は山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)を祀る。宇和島藩の筆頭家老だった。
　仙台の伊達政宗の息子の秀宗が宇和島藩主になった1615年に、政宗は重臣で固めて息子を宇和島城に送り出した。その一人が山家清兵衛だ。彼は宇和島藩で良政を行い人々の敬意を得ていた。そんな時に藩主に讒言をした者がいて、山家は暗殺された。藩主の指示であったという。元和6年6月29日(1620年7月28日)。この時に山家清兵衛の次男と三男、四男(9才)。そして隣家に居た娘婿の塩谷内匠とその息子2人がともに殺されている。7人の死者が出ているのだ。長男は仙台にいて無事だった。山家の母と妻は匿われて生き延びることができた。
　その後に暗殺の首謀者が事故死すると不穏な噂が立ち始める。そこで当時の家老の神尾勘解由が宇和島城の北に児玉明神を祀った。それでも藩主の息子たちが次々と夭折する事態になる。そこで伊達秀宗は過ちを認めて1653年に和霊神社を建立したのだ。事件を見ていた人々はこれでやっと黙ったのだろう。死者は蘇らないとしても。現在の和霊神社は1731年に創建されたもので山家清兵衛の邸宅跡なのだそうだ。
　みこたま明神には清兵衛とともに殺された息子と孫の、6人の子供たちを祀っている。「玉の緒」とは命の事でもあるからそのまま書けば御子魂明神、それを児玉と書いて、みこたまと読ませている。「児玉」は人名ではなく地名でもないのだ。
　江ノ島には台湾総督だった児玉源太郎の隠れ家があった。そこを児玉神社にして祀った人はみこたま明神を知っている人だったのではと、思った。

　児玉源太郎の統治した8年1ヶ月の台湾は発展に向かう時代だった。台湾銀行は大きくなり、台湾の企業に貸し出す金額より日本の企業との取引の方が大きくなっていたそうだ。日本の銀行は台湾銀行にお客を取られていたのだ。児玉の時代に台湾銀行が取引していた企業に鈴木商店がある。樟脳と砂糖の貿易商として有名になり後に日商岩井につながった国際企業だ。
　第一次世界大戦(1914年)のヨーロッパの塹壕の中で麻袋の土塁が積まれていた。その袋に菱形(ダイヤモンド)とSZKの文字が付いていた。鈴木商店の袋なのだそうだ。映画「西部戦線異状なし」にもその袋が出ているという。鈴木商店の経営者が日本の銀行を嫌っていたとwikiにあった。
　鈴木商店については城山三郎の「鼠鈴木商店焼討ち事件」文春文庫に詳しい。

　佐久間左馬太が総督だった時代は児玉の時代とは変わって台湾銀行が縮小される時代だ。その後の1920年に鈴木商店が経営危機になり、1927年には台湾銀行整理案(銀行を無くしてしまう)が出ている。台湾銀行は第二次世界大戦の後に米軍の手によって解体している。

　ボート遭難の碑の青年像は江ノ島を見ている。そこに児玉神社があった。台湾に想いを馳せると、その時代の人々の暮らしが見えてくる。財産を失った人々の苦労を思う。遭難した青年たちは勝者の側の息子たちだ。
　大正時代になって江ノ島に児玉神社ができる。この神社をみこたまさんと読むなら、少年たちへの慰霊であると思う。
　昭和になって稲村ガ崎にボート遭難像ができた。像は江ノ島の児玉神社に手を上げているように見える。児玉神社も慰霊碑も、これらは別々の歴史を持つ。しかしそれぞれの両方の記憶のある人達ならば、慰霊の海は違う表情を見せるに違いない。

　これは事実を元にしたフィクションです。
　鎌倉散策の折りにこの時代の悲劇を思い返していただければと思います。
　七里ケ浜哀歌は 3(映画)、4(歌) に続きます。